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早世した映画スター市川雷蔵の出自が歌舞伎役者だったことは知られている。では、雷蔵はなぜ歌舞伎から離れたのか? そして歌舞伎に戻りたかったのか? 1964年正月、日生劇場で10年ぶりに歌舞伎の舞台を踏み、「勧進帳」の富樫を演じた雷蔵の心のうちは? 生誕90年、初めて明らかになる「歌舞伎から見た雷蔵」。
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Posted by ブクログ
歌舞伎役者としての雷蔵の掘り下げはいままでなかった切り口。興味がある人も多いと思われるテーマ。 筆者も映画ファンではないというなか、映画のことはほぼ触れず歌舞伎を中心とする舞台での雷蔵情報提供に終始しており、まとめ本としての価値は高い。 かの“つくし会”に坂東竹三郎丈も入っていたことには驚いた。...続きを読むそして有名な日生劇場のこけら落とし公演の出演者(これも寡聞にして知らなかった)片岡仁左衛門丈への取材も含め、しっかりと歌舞伎における雷蔵の証言を集めているため、読みごたえがある。同じ関西歌舞伎でありながら、父の世代の違いからか、松嶋屋との交流を示す資料がこれまではなかなか見たことがなかったが、当書ではっきりした。 雷蔵の歌舞伎に対する敬慕・郷愁にはいろいろな説があるが、晩年、箱根療養中の雷蔵が、小田原公演中の鴈治郎父子を訪ねたくだりが最も素直な吐露かと思えて痛ましい。 晩年歌舞伎に復帰した北上弥太郎、最晩年に大歌舞伎で歌舞伎座にたった萬屋錦之介を例にあげ、その実現を筆者は夢想するものの、その前に小田原での扇雀との会話ですでに解説しているとおり帰還はむずかしかった、というのが筆者の説であろう。雷蔵クラスが北上弥太郎(嵐吉三郎)のように脇で収まるわけにもいかず、錦之介のような一門もなく、よってモチベーションもなく・・・というのが現実だったはず。
歌舞伎役者・市川雷蔵 ~のらりくらりと生きて 著者:大島幸久 発行:2021年8月25日 中央公論新社 眠狂四郎はじめ映画スターとしての市川雷蔵は見たことがあるが、歌舞伎役者としての彼のことは全く知らなかった。映画へと転身する前、8年間、歌舞伎役者として活躍。同年生まれの二代目中村扇雀(後の三代...続きを読む目鴈治郎→四代目坂田藤十郎)らと、上方歌舞伎を引っ張る若手として将来を嘱望されながら、22歳で大映と契約し、映画界のトップスターへと登り詰めたが、37歳という若さでこの世を去ってしまう。彼の初舞台は遅く15歳、昭和21年だったが、演劇雑誌「幕間(まくあい)」の昭和25年度人気投票では、「西」の1位になっている。一体、なぜそんななかで歌舞伎界を去り、映画へと進んだのか。短い人生で、彼を駆り立てたのはなにか?そんな思いになるが、この評伝を読むと、副題にあるように「のらりくらりと生きて」がしっくりくるような人生だったことが分かる。 著者は、報知新聞で演劇を長く取材した演劇ジャーナリスト。この本は本人による取材部分はほとんどなく(あっても重要なものはない)、文献などを研究した〝半評伝〟。雷蔵に関する「七不思議」の解明に挑んでいる。この本での新事実発掘のようなものは少ないが、著者によると雷蔵(当時は莚蔵)が歌舞伎デビューした直後に若手同士で作った「つくし会」については板東竹三郎から得た証言で創立秘話が得られたとしている。ただ、どの部分が秘話で、どの部分がこれまでにも分かっていたことなのかは明記されておらず、かなりの通でないとその価値が理解できないかもしれない。 誕生から歌舞伎界を去るまで 昭和6年8月29日 京都にて誕生(亀崎章雄(ふみお)) 半年後、父親の姉夫妻(関西歌舞伎俳優・市川団九次)の養子に(竹内嘉男となる) *父親が士官となるべく入隊、周りに説得され母親が養子を承知 昭和21年11月 歌舞伎初舞台 昭和22年春or秋 「つくし会」結成。莚蔵(雷蔵)が発起人。15人前後。千日前の千鳥屋2階に集まり、脚本を読む朗読会(本読み会)からスタート。この時に呼ばれたのが、演劇評論家・演出家の武智鉄二。その後、武智が主導した〝武智歌舞伎〟へと合流することになる。 昭和24年5月22日 「つくし会」第一回講演開催。千鳥屋で朗読形式の公演。 昭和24年4月 市川寿海の養子に(太田吉哉(よしや)となる) 昭和26年6月 市川雷蔵襲名公演(莚蔵→雷蔵) 昭和29年 雷蔵が映画界へと転ずるきっかけとなった「高野聖事件」 最初の養父・市川団九次には実子がいなかった。自分が養子であることを知らない雷蔵本人は歌舞伎役者になることなど考えていなかった。一家は大阪に引っ越しており、本人は天王寺中学(現在の天王寺高校、大阪市では北野高校と並ぶ名門府立高校)に通っていた。歌舞伎デビューすると中学を中退。 「父親の芝居を見に行っているうち、自分がぶらぶらしていることに耐えられなくなったというより、そういう私を鞭打ってくれた私自身の潔癖からといえましょう」と自著にて。 寿海への養子となったのは、一層の飛躍に向けて。若い頃に女形ばかりやらされている中、寿海のような立役に憧れたのか? 雷蔵は、代々、團十郎の弟子の名で、初代雷蔵は二代目團十郎の高弟4人のうちの一人。件の市川雷蔵は8代目雷蔵だったが、本人は7代目だと勘違いしていたことが後日分かる。 初めて歌舞伎に演出を取り入れたのは、「武智歌舞伎」の武智鉄二だった。 高野聖事件: 昭和29年の「六月大歌舞伎」(大阪歌舞伎座)で昼の部四つ目の切に『高野聖(ひじり)』がかかったが、扇雀や板東蓑助に比べて雷蔵の役は脇だった(白痴の男・次郎)。2ヶ月後の「八月興業関西大歌舞伎」(東京・歌舞伎座)でも『高野聖』が架かったが、白痴の男は雷蔵ではなかった。後に扇雀が語ったところによると、自分は寿海の養子になって扇雀の父親より格が上なのにと役不足に不満だったようだ。この役を最後に、歌舞伎界を去る。 三馬鹿事件: 人気、実力とも上昇した扇雀、鶴之助の〝扇鶴〟時代だった。同じ昭和29年、大阪・中座七月公演「納涼歌舞伎」に鶴之助は出演したが、東京・歌舞伎座の「八月興業関西大歌舞伎」は休んでしまった。この興業で『白縫譚』の愚かな若様役、『高野聖』で白痴の男役、『伊勢音頭恋寝刃』では頭が少し足りない三枚目の仲居役に配され、それを拒否して休演。そして、昭和29年9月1日に鶴之助は関西歌舞伎からの脱退を発表した。 雷蔵が出自の秘密を知った時期 ・雑誌「若い女性」では、天王寺中学に通っている16歳の時に知ったと発言。 ・近代映画社「甦る!市川雷蔵」では、昭和26年、19歳の時だとしている。市川九団次から市川寿海への養子縁組手続きで、家庭裁判所に出向いた時、戸籍謄本を見せられて自分が九団次の養子であることを知った。九団次も詳細な生い立ちを打ち明けた。 ・「娯楽よみうり」で大宅壮一との対談(昭和31年)では、昭和30年10月に死亡した九団次の葬式で親類から聞かされた。その前、寿海との養子縁組の際に戸籍謄本を見てうっすら知っていたが。 ・「文藝春秋」平成21年5月号では、妻・雅子が語っている。寿海の養子になるときに初めて九団次の実子ではなく養子だと知った、と雷蔵は生前、雅子に語っていた。 昭和35年八月、大阪・新歌舞伎座の特別公演で、歌舞伎界を去って以来、新歌舞伎座に初出演した(歌舞伎ではなく芝居)。これが、昭和39年の歌舞伎復帰へとつながる。 歌舞伎復帰へ 昭和39年正月 日生劇場にて雷蔵が10年ぶりの歌舞伎復帰。武智鉄二プロデュース・演出「寿大歌舞伎」。 毎日新聞記者が戻るのかと聞くと、「今、戻るのは損だ」と答えた。関西歌舞伎の衰退、養父・寿海の影響力低下などが原因か。「もっと年をとってからならば・・・」とも。 平成30年10月、著者が歌舞伎座出演中に片岡仁左衛門をインタビューした際、雷蔵を「嘉男ちゃん」と言って懐かしんでいた(雷蔵の方が一回りほど年上)。 昭和40年11月、大阪・新歌舞伎座公演「秋のスターまつり」に出演し、2年連続で舞台を踏む。歌舞伎ではなく、芝居。舞台では初共演となる朝丘雪路も出演。髙田美和も。
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大島幸久
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