キリスト教に対して人びとが抱く素朴な疑問を手がかりとして、著者の考えるキリスト教の根幹的な発想が、わかりやすく解説されています。
著者はまず、平和を説くキリスト教がなぜ十字軍などの戦争を起こしてきたのかという疑問をとりあげます。そして、社会を特定の教義によってまとめあげる力ではなく、社会をまとめる
...続きを読むために引かれた境界線を乗り越えることこそが、キリスト教を特徴づけていると論じています。またこれに続いて、「善きサマリア人」のたとえを参照し、キリスト教の説く「愛」についての考察も展開されています。
さらに著者は、一神教とは何かという疑問を取り上げ、一神教と多神教を対立させる見方に疑問を投げかけます。唯一絶対の神を信仰する立場からはそもそもこうした対立が成り立たず、そればかりか神は見ることも独占することもできないと著者はいいます。神を見ることができない以上、唯一神への信仰は狂信ではありえず、むしろ神を求めて万事に配慮することこそが要求されると述べられます。
ところで、こうした何ものかとして規定されることのない唯一神が、イエス・キリストとして人格を持つことになるのはどうしてなのでしょうか。この疑問に対して著者は、私のさまざまな属性に基づく境界線を越えて、端的に「あなた」(汝)に出会うことを可能にするのが、イエス・キリストへの信仰だという考えを提示しています。こうして、神への祈りとは、「わたし‐あなた」(我‐汝)の出会いの可能性を開く場所だという主張が展開されます。
「あとがき」によると、本書で論じられる「わたし‐あなた」の関係は、ブーバーの『私と汝』にヒントを得ているとありますが、そのことは本論のなかで表立って語られず、むしろ著者自身の言葉でわかりやすく説かれていることに好感を抱きました。