善く生きることとは
「無知の知」や「悪法も法なり」で有名なソクラテス。
彼自身は著作を遺していないのでプラトンによる記録である。
君がもし、国家で起こりうる不正や違法な行為を止めたいと考えるなら......
公人ではなく、私人であるべき。
私にはこの言葉がわからない。
確かにそうだと思う反面、そ
...続きを読むうではないという気持ちもある。
もちろん現代とはまったく異なる政治体系の中、また異なる文化の中、いかに県人であっても古代ギリシアの価値をそのままもってきても上手くはいかない。
だからこそ考えてしまう。
今ならば、彼の言葉は異なるのか、あるいは今も変わらないのか。
初めて「倫理」(担当教員は哲学が専門だったのでたいそう面白かった)の授業で深く踏み込んだとき、毒杯をあおいだソクラテスをなんとバカなことをしでかしたものだと思ったが、言われてみれば確かにそうだと頷ける。
それが心からの納得ではないにしても、国家と国法が語る言葉は間違ってはいない。
これは今の日本にも十分に当てはまる。
以下がその一部である。
・もし国民が我々の法律や国家の内情を見て気に入らないと判断したのなら、財産をもってどこへでもいける自由を保障している。
その上でなお、この国にとどまるものがあれば、それは即ち我々の命令に従うという同意を表明したことになる。
・従うことを同意しておきながら従わず、しかも何か間違った点があるとしてもそれを説得しようともしていない(ことは不正である)。
善い生き方。
非常に難しい。
凡人なる我らには、善きことを考え、それを誠実に実行することよりも、日々の些細な出来事に忙殺されてしまう。
それについて責めることはできないだろう。
しかし、一日のうち、ほんの数秒だけ、これは正しいの?
そう考えることで何かは変わっていく。
今はソクラテスのような偉大なる賢人はいない。
googleは「善く生きる」事については教えてくれないのだ。
だからこそ自らの中に眠る賢人を呼び起こす他ない。
その賢人は自分という凡人とともに歩み、助けてくれるはずだ。
その賢人こそ、「わたし」。
自分自身である。