霊歌からブルーズ、ジャズ、ファンク、ヒップホップまで、アフリカン・アメリカンの文化から生まれた音楽はその底に彼らが生き延びるための暗号・韜晦・隠喩が秘められていた。〈アフロ・マニエリスム〉を提唱する著者がブラックミュージックをG.R.ホッケの方法論で解剖し、貼り継いで新たな絵を描こうと目論んだ異形の音楽史。
めちゃくちゃ変な本。こんな変な本だと思わずにタイトル通り黒人音楽史を勉強するつもりで読み始めたら、ホッケやラブジョイの引用まみれな文章に面喰らい、著者略歴の「〈機関精神史〉編集主幹」を見て高山門下生かい!!!!!と気づいた。知ってたらもうちょっと構えて読んだんですが。
とにかくこの本自体がシュルレアリスムを肯定するためにマニエリスムを再評価したホッケの方法論をそのまま借用して、ブラックミュージックに潜むオカルト的な想像力をマニエリスムの名の下に肯定しようとする試みになっているのである(つまりウータン・クランが大好きなんだろうな)。ほとんど関係ないことまでなんでも連想ゲーム式に書き込んでしまうアナロジカルな"悪文"まで引き継いでいて、まさか音楽史の本を読んで「『迷宮としての世界』と『文学におけるマニエリスム』を読破しといてよかった」と思うとは予想してなかった。
私は澁澤、種村を愛読し、高山宏ファンなので本書にでてくるマニエリスム関連本のほとんどに見覚えがあるが、最初のほうは何を言ってるのかよくわからず頭がカチ割れるかと思った。マニエリスムと初対面の人はいったいどう読むのか。私にブラックミュージックの素養がないのも一因だとわかってるけど、それを語るのに杉浦茂を持ちだしてくるこの本が奇書なのは間違いないです。
だが、牽強付会に見えた語りも〈土星人〉サン・ラーを扱った四章あたりからチューニングが合ってくる(私がノリに慣れてきただけかもしれない)。サン・ラーの言葉は歌詞もインタビューもナンセンスかつネオ・プラトニズム的な宗教哲学に満ちていて、澁澤と混ぜこぜに語られるのもやんぬるかなという気分になってきた。「人は一人ではない。腕が2本あるように、二重性のもとにあるのだ。人は自身のバランスをとらなければならない」なんてフェルナンド・ペソアみたいだし。
そして一番著者の論旨と中身がガシッと噛み合ったのが、Pファンクの創始者ジョージ・クリントンを取り上げた五章だと思う。白人が黒人を演じたミンストレル・ショーに始まり、世間に求められる「黒人らしい黒人」を誇張して自ら道化になりきり、黒人を真似る白人をさらに真似て表と裏をわからなくしてしまうメビウスの輪みたいなカーニバル空間、それがPファンクであると。ここでバフチンと繋がるのはそうだろうという感じだが、クリントンの政治的な言説を笑いでやりすごす態度はグリーンブラット『暴君』で語られたシェイクスピアにも近しい。.ENDRECHERI.のファンとしてはこの章を読みたくて本書を手に取ったのもあり、ここが一番読みごたえがあって面白かった。猥雑で生命力に溢れ、哄笑で包んでシリアスな自分を守る。クリントンたちはそうやって奴隷船の歴史を宇宙船でのワンダートラベルに書き換えてきたのだ。
ゴシックホラーと黒人の歴史を重ね合わせてグランギニョル的な残酷劇を描きだすラップジャンル「ホラーコア」や、ヒップホップのなかに実はぶっとく存在するカバラ主義者の秘密結社など、終わりの二章も知らないことだらけでとても楽しかった。特に人種的マイノリティを恐怖対象の〈他者〉として描いてきたゴシックが、今はむしろ周縁的な〈怪物〉にシンパシーをよせる作者たちによって積極的に語り直されているという潮流はラックハーストの『ゴシック全書』を読んでから気になっていたトピックだった。引用癖とか本歌取りとか断片のつぎはぎテクストとか、ヒップホップって構造がそもそも19世紀ゴシックのリバイバルなんだよね。
知識量は全く追いつかないものの、自分と同じ読書傾向の人が信念に従って黒人音楽を読み解いたらこうなる、というものを読ませてもらえるのは貴重な経験だった。音楽方面であまり英語圏の先行研究をひいてない感じがするので、ここでぶち上げられた〈アフロ・マニエリスム〉がどのくらい妥当な文化論になっているのか私にはまだよくわからないが、全体に渡ってホッケが引用され続ける黒人音楽の本は空前絶後だろう。奇書との出会いに感謝、高山宏に感謝である。