日本復帰に至るまでに,沖縄の人々が強い民意を軸にアメリカの暴政への対抗を続けていたと知ることができた.
それに対して
・経済界はアメリカとの協調で得られる利益から,行政(瀬長市政)へは非協力的であった
・アメリカは,『「民主主義のショーケース」と位置付ける沖縄で,露骨な非民主的手法は使えなかった』(p.59)とはいうものの,市議会経由での市長降ろしやら,『沖縄での「自治は神話」』という高等弁務官(沖縄に関して大統領から大幅な権限が与えられた軍属)が居たり,相次ぐ軍事的事故・基地外での事件など,アメリカによる統治は救いのない状況でしかなかった.
・日本政府は返還交渉にあたっては,返還の実績を重視し,質はアメリカとの交渉や,自己都合を考慮していく過程で落ちていった模様.『日本復帰前に日米合意に基づき国政参加が実現したが,返還協定の審議という重大局面で,沖縄代表と住民の声は無視された.』(p.232)『岩国基地か三沢基地に移転すると「政治的な問題を生じさせる」という理由からだ.岩国は佐藤の選挙区である』(p.236) 返還にあたっての色々な交渉は難しいことではあったろうが,結局他人事として考えていたのではないか.
孫引きになってしまうが,1970年のコザ事件(米兵が歩行者を撥ねた・その数時間後に沖縄人と車両同士で事故を起こしたことをきっかけに起こった暴動)に際して,それまでに積もった
『沖縄のこの二十五年間の犠牲.何万という人が死んでいて,沖縄はどうしたらいいのか.沖縄人は人間じゃないのか,ばかやろう.この沖縄人の涙をわかるのか.』
・1967年の首脳会談で『「両三年内」に沖縄の返還時期を確定するとの約束を取り付けた』p.147
・『返還交渉に際して日本政府は「核抜き本土並み返還」を常套句として使っていた.「本土並み」の政府見解は,基地を日本の国内並みに軽減する意味ではない.米軍の駐留を約束する日米安保条約を「本土並み」に沖縄に適用することを意味する.(中略)沖縄の苦難の歴史を理解しない一方的な主張だった.日本が「栄えてきた」のは,日本から切り離した沖縄に配備された米軍の「核の傘」で守られながら,高度経済成長を実現したからではなかったか.』『沖縄の将来を決める変換交渉過程で,沖縄は一貫して蚊帳の外に置かれた.』p.223
・『―県民が復帰を願った心情には,結局は国の平和憲法のもとで基本的人権の保障を願望していたからに外なりません.(中略)沖縄はあまりにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎてきました.復帰という歴史の一大転換期にあたって,このような地位からも沖縄は脱却していかなければなりません.―「犠牲」とは,日本が始めた侵略戦争の果てに沖縄県民の四人に一人が犠牲になった沖縄戦と,米国統治下で「軍事植民地」のような状態に置かれたことを指すのだろう』p.229