麒麟がくるも終幕に近いこの頃、著者の福島克彦氏は私も何度か訪れている大山崎歴史資料館の館長で、光秀に関する著作や講演も多くされており、造詣も深く、光秀の最新の史料、学説も網羅されています。また分かりやすく公平で、現在あまた出版されている諸本で何を選ぶべきかお悩みの方にもお勧めします。
例えば、本
...続きを読む能寺の変の後、秀吉が茨木の中川清秀に返書で送った信長生存の手紙(※梅林寺文書)について、他の学者が秀吉の情報戦略の一例として紹介しているところ、「当時茨木にいた清秀には、日々京都、畿内・近国の情勢がより正確に入ってきたはずである。」と冷静。
梅林寺文書はもともと清秀が先に本能寺の異変を伝えたもの(内容は伝わっていません)で、私的には多分秀吉は信長生存説をばらまいたが、清秀にも同様の内容を送らないと齟齬が出ると考えたのではないかと思います。
梅林寺文書を参考に
※『これから書状を出そうと思っている時に貴報を受けて嬉しく思う。さて、ただいま京都より下った使者の報告によると、信長様・信忠様はいづれも、なんのお障りもなく難を切り抜けられ、膳所ヶ崎へ退かれた。その間、福富平左衛門が三度も力戦をして比類ない働きをし、何事もなかったとのこと・・・なお、ただいま野澱(岡山県御津郡)まで到着したところ、貴殿(清秀)の書状を拝見しました。今日できれば沼(岡山県上道郡)まで進もうと思っている。また、古田左介(織部)にも同様にしたためておこう』
わがまち茨木・茨木市教育委員会