(下巻)
この下巻においても著者が描くアリストテレスの世界観には全くブレがない。完全で、不変かつ永続的な世界。その世界の「パイノメナ」から得られるありのままの表象を真摯に見つめ、それらの関係性を入手できるデータから読み取ろうとする姿勢。自然に対するこのアリストテレスの態度こそが、現在まで続く生物学
...続きを読むの系譜に脈々と受け継がれてきた科学という学問の本質だという。
進化論内部のアリストテレス的要素を論じた章がおそらく上下巻通じての山場だろう。アリストテレスは生物個体間の差異について、形相=本質的な情報の伝達を伴わない非定型の変異だとみなしていた。また両親の特質が子に伝達されないのは精子内の自動機械(アウトマトン)の働きが阻害されるためであり、逆にいえば通常は変異の再生産は生じないとしていたのだ。対照的にこれらを起点として生物の多様性が生じたとするダーウィニズムとの差異は歴然としている。また、デモクリトス的な目に見えない粒子の存在を否定するあまり、生殖による形相の伝達という自説を否定してまでカキなどの自然発生を唱えるなど、あきらかに矛盾した主張も散見される。しかし、たとえばキュビエの分類法における「生存条件論」はアリストテレスの「条件的必然性」とほぼ同一視できるし、キュビエと対立したジョフロワの「平衡の法則」もアリストテレスの経済性の法則に似通っている。結局ダーウィンの進化論内にこれらの対立は一気に収斂してしまうのだが、これらの進化を巡る議論の系譜内にアリストテレスの影響が見て取れるというのが著者の主張だ(やや牽強付会の感もなくはないが)。
著者は、「条件的必然性(生物の各部分は他の部分と適合的でなければならない)」や「自然の階梯(自然は飛躍しない)」などの進化論の基幹をなすアイデアは、すでにアリストテレスの中に見出すことができるという。しかし、当然アリストテレスの生物学それ自体の中に進化論はなく、アリストテレスの静的な生物界はダーウィンの動的なそれとは異なる。アリストテレスはあくまで自然界は完全かつ不変であると信じていたため、適者生存などという改善の余地はないと考えていたのだ。一方でアリストテレスは種の間に体内栄養の利用効率(コスト・経済性)に差があり、それぞれの機能システムの要求に応じた物質的制約の度合いが種ごとに異なることを認め、これが生物多様性の原因だとしている。しかしそうだとするなら、なぜ種ごとに経済性が異なるのかが問われねばならない。その格差を所与(公理)としあるがままの世界を受け入れたのがアリストテレスであり、格差が生じた理由について深く掘り下げたのがダーウィンだった、ということになるのだろう。
ところで、目的論的な説明が行き着くところの「だれが生物の各機能をデザインしたのか?」という究極的な問いに対し、ダーウィンは「自然選択」と明快に回答したが、アリストテレスは明確な答えを与えていない。しかし、インテリジェントデザイン的な発想を拒絶していた彼は、もちろんデザイナーなきデザインというボトムアップ的な直感を持っていただろう。ここでまたしてもアリストテレスは静的な自然観を提示する。生物がこのようにデザインされているのは、種の永続性を担保するためである、と。では、その永続性はなぜ要請されているのだろう?
ここで「神」や「宇宙」が持ち出されるためやや面食らうが、著者はアリストテレスのこれらの概念をあくまで(月下世界の)生物システムに結びつけており、議論は超自然的な領域に拡散して行くことはない。著者によればアリストテレスが維持すべきと考える「善」は、家庭や軍隊のアナロジーで表現されるところの「共通の目的」により宇宙が階層的に組織化されていることだという。サメの頭部が他の種を食べすぎないよう配慮した構造になっていると考えたアリストテレスは、宇宙それ自体の「自然」が、「その自然自体により」予めデザインされた構造を持っていると考えた。そのデザインの目的は、生物個体(種ではなく)の生き残りのためであり、さらには自然変化=因果関係の永続性を担保するためであり(単に「生物の目的は永遠性にある」というのではないことに留意する必要がある)、その因果関係を保証しているのが宇宙のエンジンたる星の運行であり、神だというのだ。
しかし、超自然的な外部の知性を否定したはずのアリストテレスが神に傾倒するのはなぜなのだろう?ここが本書で最も混み入った部分だと思うのだが、著者はややトリッキーなやり方で神の外部性を消去する。アリストテレスの考える「善」性とは、天球に動力を供給する「不動の動者」が愛をもってそれを行うこと、すなわち理性の体現者が理性たる対象を思惟すること(観照)にあるとする。つまり神の目的それ自体の中に目的があるという実用性を排除した純粋な「目的」を「善」として抽出し、自然の本質はこの純粋な「目的」を模倣することにある、とするのだ。自然の内部に神の目的が埋め込まれた、このクラインの壺のような連環が、上巻冒頭で引用された竈門の逸話にあった「ここにだって神がおられるのだから」で表現されていたのだ。
では、なぜアリストテレスは忘れられたのだろうか。13世紀、トマス・アクィナスによるアリストテレス形而上学と神学との統合を経たスコラ哲学による絶対視により、アリストテレスは自然科学とは相容れない生気論者であるとの言説が定着した。17世紀、フランシス・ベーコンやデカルトらの機械論的立場からの批判によりこの見方はより一層強固なものとなる。しかし、豊富な自然観察をもとに真理を抽出するというアリストテレスの実践的手法は、現代の科学のスタイルに大きな影響を残していることを忘れてはならないと著者は指摘する。現代科学の2つのスタイル、すなわち①仮説を立て実験で検証する、②データからパターンを見出し、因果関係を抽出する(「オーミクス」「ビッグデータ」)のうち、後者は紛れもなくアリストテレスの方法論にその原型を見出すことができる。アリストテレスは非機械論的(生気論的)であるという批判に対しては、アリストテレスも当時の機械論(「四つの原因」)を用いていたという反論が成り立つ。そもそもアリストテレスの時代には生物に比肩する精巧な機械は存在していなかったのだ。そして何よりも、生物に対する綿密な観察から何らかのパターンがあるはずであるという存在論的な問いをたて、「形相(分子生物学における染色体が担う「情報」に相当)」や「目的論(ダーウィニズムにおける「自然選択」に相当)」の存在を見出したアリストテレスは、現代科学の根幹をなす諸理論における土台として今も十分機能しているという。
要は、アリストテレスは彼の置かれた環境という制約内において、最も現代の自然科学に肉薄した存在だったということなのだろう。その制約を度外視して、アリストテレスを前時代的な蒙昧の象徴だというのは確かにフェアではない。著者によれば、理論と現実のダブルバインドに誰よりも悩んだのがアリストテレスであり、彼が否応なく犯した矛盾と誤謬から大きな統一体としての完全性の体系に至る道が生物学だった。タイトルの「創造」という強い言葉が、著者のこの見解を何よりも雄弁に代弁していると思う。個人的には、二千四百年もの昔のいかにもとっつきにくい哲学の大家の、生物オタク的な愛すべき側面に触れられたことも収穫だった。