本書も、日経書評で見かけて気になっていたら、会社の先輩から回ってきた。ラッキィ♪
難民の実状は、なかなか伝わってこないので、当事者によるルポルタージュはそれだけで貴重だ。それほど、我々は難民のことも、また、難民が発生する国、地域の現状を知らない。
本書の中でもベルリンで著者のユスラと姉のサラ
...続きを読むで大笑いするシーンがある。
「ボランティアの女の子がいるんだけど、(中略)マジな話」。サラが続ける。「シリアで暮らしてたころはノートパソコンを使ってたって言ったら、びっくりしてんの。シリアにコンピューターがあるとは知らなかったわ、だって。シリア人はみんな砂漠に住んでるのかと思ってたみたい。わたしたちだって前はふつうの生活してたんですよ、って教えてやったわよ」
地続きのヨーロッパの人ですらだ。遠くFar Eastに居ては、なかなか中東の暮しを知る機会も少ない。そういう意味で、こうした著作や、映画に触れることに意義はあるかと。
ただ、この手のOut Putは、どこのだれが手掛けて世に出しているのかは気になるところ。本書も、冒頭に、この物語の山場である、トルコからギリシャ領の島まで海を越えて密航を企てるシーンが登場し、一気に読者を引き込む。20前後の競泳選手が書いたにしては、あまりに巧みだと思う。巻末謝辞に、英国人ライターの名が出ており、どうりでと納得。
この手の違和感というか、作品としての出来過ぎ感は、ナディア・ラムド著「THE LAST GIRL」でも感じたものだ。
誰かが、意図的に、彼女らのエピソードを使って何かを訴えている。世情を操作せんがため、というのは穿った見方すぎるかもしれないけど。
そして、彼ら、彼女らの言動が、メディアにいいように利用される点も似ている。ユスラの場合は、その冒頭のエーゲ海を越える密航シーンだ。
「想像の尾ひれを付けた「ボート・ストーリー」があふれかえった。(中略)いちばんありえないストーリーは、わたし一人が腰にロープを巻き付けて自由形で波を切り、150人も乗ったボートを安全な岸まで引っぱっていった、という内容。(中略)たぶん、ヒーロー像がほしかったのだろう。わたしが望むのは、ただ泳ぐことだけなのに。」
ナディアのケースは、ISISの支配を脱した検問所での受け答えがビデオに録られ政治的プロパガンダに利用されたりもした。
また、ユスラを、難民五輪代表団の一員としてリオ五輪に参加させようという動きも多分に政治的だ。ユスラも、はじめは、
「難民はわたしのチームじゃない。そうでしょ?難民って言葉はわたしの本質を表現する言葉じゃない。そうでしょ?わたしはシリア人で、わたしは水泳選手なのであって、難民チームの代表ではない。その、なんて言うか・・・それって、ちょっと侮辱されてるような感じがするんだけど」
と反対の立場をとる。とはいえ、こうした、素直な述懐を読めるのも当人によるルポルタージュの醍醐味ではあるのだけど。
こうして、我々が手にして目に触れることのできる記録は、恵まれた境遇を活かし紛争国を抜けだし、偶然の重なりから苦難を乗り越え西側にたどり着き、そして幸運にもメディアの目に止まった、ごく一部の難民の、非常に稀有なケースであるということは認識しておくべきことなのかな。
それほど、彼女らの逃避行は、波乱万丈であり多くの幸運な出会いやタイミングに溢れている。もちろん、若く快活で、姉妹で行動を共にできたという、彼女らの性格、パーソナリティによるところも大きい。
「海とハンガリーは、マジでひどかった。でも、ほかはなんか、おもしろかったかも」
こう話せる、前向きな性格が、きっと彼女を今の場所へと導いたのだろう。彼女の飾らない性格や、我々が日常、見聞きするティーンエイジャーに近い感覚や言動を知ることで、今や、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使にまでなったユスラではあるが、一貫して変わらないメッセージが、素直に聞ける。
― 難民はほかの人たちと同じ人間なのです、と。