前職で、しばらく韓国株の担当をしていたことがある。
正確には韓台豪新の担当だったが、豪新なんて特に動きもないので、もっぱら韓台、とりわけ韓国のいくつかの財閥企業の分析が主だった。
多いときは、ほぼ月イチのペースで訪韓していた。羽田-金浦のアシアナ便で、機内で出るキムチにも自然と慣れた。
まだアナリス
...続きを読むトとしても駆け出しのころで、最初にこんな地域を担当したせいか、どうも自分の相場観みたいなものは相当歪んで育ってしまったように思う。
グローバル株式を見るならまずは米国だろうし、そもそも日本人なのだから日本株から入って良さそうなものだが、新人である自分の人事を自分で決められるわけもなく。
ただ、日本株が毎日値を下げるのが当たり前の時代だったことも併せ、おかげで日本株を客観視する視点を獲得することはできた。
当時は、韓国の新聞を読むところから一日が始まったが、あれは結構苦痛だった。
なんということもない経済記事でも、日本との比較が必ず入る。
コンプレックスとその裏返しの過剰な物言い。
単なるマーケットシェアの話に檀君とか混ぜなくていいんじゃないかと思ったり。
日本語以上に論旨を掴むのに困ることも多々あり、率直に言って、読むだけで疲れた。
何より、自分たちの隣に、理解し難い思考と知識(事実か否かは別)を持つ集団がいることを知り、まず驚き、そして考え込まされた。
それまでの人生でまったく意識することはなかったのだが、ずっと自分たちが眼差されていたことを知ったのである。
そして、自分は彼らにどう接すれば良いのか、悩むことになった。
例えるなら、自分は相手のことをまったく気にしていなかったのに、相手はずっと昔から自分に対抗意識を燃やしていたのだと気づいたときの気持ち、
ふと、自分をじっと見つめる視線に気づいたときのぞっとする気持ち、みたいなもので、
さあ、その相手とどう付き合うのが良いか、という問題だ。
自分の出した結論としては至極簡単で、というか安直で、「無理して付き合う必要は無い」というものだった。
財閥企業が中心となる韓国の銘柄調査は、そのまま一国の建国史の調査につながるところもあり、韓国についての知識はますます蓄えられた。
また、大抵の企業には、日本で修行をしたという日本語の上手な従業員がいて色々と教えてくれた。
しかし、それはそれ、これはこれ。そもそも業務上付き合いがあるだけで、個人との付き合いとしてはそれ以上のところには踏むこまない。
表面的な付き合いに留めることで、相手と衝突することもなく、自分の中の平静も保たれた。
自分は酒を飲まないので、それも好都合だった。
接待も大抵は一次会で解散、ハニトラも起こりようがない。
本書の著者が言うように、日韓には「断層」がある。
著者は、それについての「気づき」と学びこそがより良い隣国関係の出発点になるとしている。
だが、隣国関係は良好でなければならないのだろうか。
気づき学んだ上で、敢えて交わらないという選択肢もあるのではないだろうか。
自分が、話せば分かる的な親韓論にも、不満の捌け口としての嫌韓論にも汲みすることが出来なかったのは、こういった事情があるからだが、どうも昨今の日本のサイレント・マジョリティの意識も、自分が考えていたもののほうに向かっているような気がする。
相手を深く知ったがゆえにというよりは、単に理解の範疇を超える行動を取る存在であることに気づいただけ、というところはあるだろうが。
また、意識とは別に、日韓を取り巻く状況は変化している。
本書では、日本からの韓国への技術・金銭の援助は、贖罪の意識があったからだという。
当事者の意識としてはそういうこともあったかもしれない。
ただ、実相としては当事者の意識などは関係なく、旧冷戦構造の中で、韓国を西側諸国のショーケースとして見せるべく、米からの圧力の下、日本政府の指示でなされたものに過ぎない。
今や、両国は互いに米中覇権戦争の最前線に立つこととなったわけで、「気づき」と学びは必要不可欠ではあっても、きっとそれは良好な関係を結ぶためではない。
援助も贖罪も前時代の遺物なのだろう。