ユーザーレビュー 恥辱 J M クッツェー / 鴻巣友季子 ずどんと重いものが内臓に残るような読後感。 ルーシーの存在は、彼の「女を組み敷きたい」という暗い欲望がどこに繋がっているかをまざまざと見せつける。女がすべて彼の人生の彩りでしかない(彼がルーシー以外の女性を人として捉えられない)状態から、主人公を徹底的に引き摺り下ろす。 羊の命にこだわり、土地の風...続きを読む習に抵抗していた彼が、最後に手放すものが悲しい。 Posted by ブクログ 恥辱 J M クッツェー / 鴻巣友季子 重い、これは告発小説なのだろうか? 圧倒的な力の不均衡のもとにループしてゆく暴力、暴力。 男と女、白人と黒人、若者と老人、人間と動物。 欲望と憎悪と復讐心と。 これはアフリカーナーの懺悔録なのだろうか。帝国主義のもたらした残滓としての「恥辱」が重層的に描かれる。52才にして未だ枯れやらぬ男であるが故...続きを読むに社会的に抹殺されるデヴィッドと、要らない生き物として殺処分される犬の運命が重ね書きされているところに、この作品の救いのなさがある。色好みの中年男性が年下の女性に入れあげて失敗し、都落ちして現地の女性と関係する、というストーリー自体は、一種の英雄流離譚とも読めなくも無くて、日本なら『伊勢物語』『源氏物語』あたりがよく知られている。そのプロットをアパルトヘイト後の南アフリカに置換えた結果、英雄流離譚が暗黒変換されたものとも読める。 では、英雄を駄犬に変えてしまうものとは何なのか? 移民、ではなく、主人、として植民地に乗り込んだ人々の後ろ暗い思いと戸惑い、なのだろうか?現代社会が説く「平等」や「博愛」、「自由」を思う様蹂躙した先祖たちの過去を、謂れもなく精算させられる側の。とするならば、これは、日本人の物語でもあるのではないのか?朝鮮の、中国の、台湾の、南洋諸島の人々の視線を無邪気にかわし、無知に遊ぶ日本人の恥辱を暴く小説ではないのか? 『今ここに在ることの恥』という辺見庸さんの著作を思い出す。 私たちは知らない間に、あるいは意図的に、いつも誰かの足を踏んでいる。 Posted by ブクログ 恥辱 J M クッツェー / 鴻巣友季子 都会的で女遊びが好きな大学教授が、社会的に転落した結果、新しい愛と多様性の受容を達成する話。後半に娘の家で強盗に襲われてからの話は深くて切れ味があって良いのだが、前半の転落するところまでのスケベ親父っぷりがひどくて引いた。 全体としては、人生も後半になって大きな内心の変化に至るまでの主人公の心...続きを読む情がとてもよく書かれているし、訳文も端正さと切れ味がよく文句なし。 Posted by ブクログ 恥辱 J M クッツェー / 鴻巣友季子 南アフリカの大学(都会)と田舎の二つが舞台。 仕事で2度しか訪れていないが、リアリティをもって読むことができた。 主人公は西欧文学専攻の大学教員。それがセクハラ疑惑から転落し、犬の殺処分に携わる中で、これまでの人生を振り返る。その振り返りは生やさしいものではない。過去の女性は彼の中では全て美しく輝く...続きを読む。しかし、唯一、実の娘ルーシーだけは、妥協点が見えない。彼女こそ、もう一人の主人公ともいえる存在。覚悟が決まっていて、不可解だが、魅力的なのだ。 読み終わって、ただただすごいものを読んでしまったという感想しかない。ヒロイズムのかけらもないのに、人間とは、社会とは何なのか、考えさせられる。 Posted by ブクログ 恥辱 J M クッツェー / 鴻巣友季子 恥辱とは何か。確かに、本書の主人公やその娘に与えられるものは私たちの常識感からいえば恥辱以外の何物でもない。しかし、主人公たちにおける価値観のゆらぎのなかで、それが恥辱ではなくなっている。アパルトヘイトが終焉したときに南アの人々が感じた価値観のゆらぎがこのようなものだったのだろうか。それは想像するほ...続きを読むかはない。 Posted by ブクログ J M クッツェーのレビューをもっと見る