『二〇〇一年秋の、生存の望みが消えた殉職者たちの名があり、その数年後に亡くなった人たちの名もあった。さらにその下の艷やかな大理石に広い空白があった。今制服を着ていて死ぬ者たちとこれから生まれて警官として殉職する者たちを待っているのだ』
語られる言葉が意味するものと意図するものの乖離。字義通りに受け止めるべきなのか、そこに隠された意図を読み取るべきなのか。例えば、心の病を抱える人が訴える悲劇的な出来事は、実際に起きた物理的傷を負わせる事象だったのか、それとも心的障害が産み出す幻覚なのか。自分が告発される側に立たされる過去の罪は、本当に自分が犯したことなのか、それとも自称被害者の妄想なのか。そんな構図が幾重にも積み重ねられた小説であることが徐々に見えてくる。それがニューヨークに暮らすナイジェリア産まれのドイツ人の母を持つ主人公の抱える闇の深さと急に結び付き頭を殴られたような衝撃を静かに感じる。
例えばthreadという動詞が意味するように時間と空間を自由に繋ぎ合わせる文体は、翻訳者のあとがきにもある通りW.G.ゼーバルトやマイケル・オンダーチェを彷彿とさせる。とりわけゼーバルトの小説を彷彿とさせる既視感は執拗に投げ込まれる史実と虚構の混在から生じる。語られる記憶は、あたかも実際に起きたことのように(例え小説という枠組みの中であったとしても)語られるのだが、記憶というものは甚だしく曖昧で、辻褄の合わない部分は速やかに創造されてしまうもの。その境目を意識せずに受け止めれば内部から沸き起こる鈍い恐怖に蹂躙されることになる。一つの記憶は引き出される度に間違った棚に戻され、何時しかその棚の分類項目に溶け込み変容し、フォルダの文書たちと一つに混じり合う。詳細が積み重なる程に変容した記憶は事実と見分けがつかなくなり、その創作は静かに深く体内に侵入し、時を経て悪寒めいた感覚を生み出すのだ。
かつてエーコが言ったように、開かれている(オープン)ということは、そこに何を読み取っても良い、ということも意味してしまうだろう。それをテキストではなくシティの前に置くと、何も特別なことではなく、むしろありふれたことだと解る。例えば、見知らぬ街を訪れる時、見た目やそこに記された文字から、勝手に印象を作り上げることをしてはいないか。この小説は全般にその私的解釈の積み重ねを淡々と述べ続けているだけのようにも見える。多くの人々が見向きもしない史実がそこに、文字通り埋もれて地層を形成していると言わんばかりに。肌の色が人々に与える輻輳した印象と多重露出するように、あるいは重ね合わせることが無意味だと言うように。しかし歴史家のような視点で語る主人公の言葉もまた開かれる宿命にあり、作家は読者の主人公に寄せる信頼を大きく揺さぶり、またしてもゼーバルトを思い起こさせる既視感を生じさせるのだ。
appearance and meaning of reality、ふとそんなフレーズが頭の中で浮かび、念仏のように何度も木霊する。