塚本学先生による近世における「生類」観を明らかにする一冊です。
塚本氏によれば、「生類」とは野生動物のみならず人間にまで視野を広げた近代化以前の日本の生命観の一つであるとします。そして江戸時代の社会構造の変化や人間と生類の関わり方の変化を明らかにすることで、徳川綱吉の治世に施行された「生類憐れみの
...続きを読む令」について当時の社会情勢の中で熟慮の上で立案された政策なのではないかという観点で再検討を行なっていきます。
本書では生類憐れみの令について「鉄砲の所持規制」「鷹狩の抑制」などの個別の政策に分けて考察を加えます。注目されるのは生類と社会-特に農村-の関係、そして山野・人間社会を含めた生類をめぐる空間を支配する権力のありようです。
生類憐れみの令が発布された江戸前期においては戦国の遺風がかすかに残る中で、兵農分離にともなってそれまでの社会集団が解体されていく過程にありました。この本ではそうした社会構造の変化にあわせて鳥獣と人間の関係性にも現れた様々な変化が顕現したものが「生類憐れみの令」であるとしています。「鉄砲の所持規制」は兵農分離によって減少していた農民の士人的要素をさらに推し進め、銃を扱う農民の存在を特殊化する方向へ決定づけました。「捨て子や捨て牛馬の禁止や保護」は江戸時代以前まで存在していた被官を中心とした集団的営農が解体され世帯が小規模化することで弱者を養育する余裕がなくなったことで増加した捨て子・捨て牛馬に対して、幕府が先導して管理・保護を行うことで解体された社会を中央集権的に再編成する意図があったのではないかと著者は推測しています。更に悪名高い「犬愛護令」についても治安対策的な側面に光を当てています。
このように生類憐れみの令を「綱吉の個人的な殺生忌避から発布された法令」や「幕府が武断的な社会に慈悲の心を植えつけようとした」といった道徳的な見方から解き放ち一つの社会政策として捉え直すことで、太平の世となった江戸時代における農村におこった変化の一端を明らかにすることに成功しています。更に近世における人間と生類の関係に対する幕府や藩の働きかけが明らかになることによって、人間社会の周縁に対して当時の支配層がどのように管理を強化することによって権力を及ぼそうとしていたことがわかります。
本書を読んで特に認識が深まったのは鷹狩をめぐる諸事象です。
山野への支配の象徴として機能していた鷹狩は、領主層にとって重要なイベントであり、そのために鷹場の周辺では鳥獣が保護されており、農村においては鳥獣害が大きな負担になっていたことが指摘されています。また、鷹狩に用いる鷹の餌として犬が必要とされていて、農村において犬の飼育が義務化されておりこのことも農村の負担としてのしかかっていた事も明らかにされており、鷹狩は単なる領主の道楽として存在していただけでなく、制度的に整備された社会的意義のある行為であることが示されています。
一方、本書は主題からして「生類憐れみの令」を綱吉の殺生忌避を外して検討してみるということで、全体を束ねる軸がいまいちはっきりしていないように感じます。そのため当時の社会情勢というものをなんとなく理解するというところで、私の理解はとどまっています。それぞれ個別の政策について再評価を行なっていますが、やはり綱吉のパーソナリティを抜きにこれらの諸法を語ることは難しいように思われました。