ユーザーレビュー 夏目漱石 下 小宮豊隆 私は漱石の亡くなった齢をだいぶん越したのだが、自分の考えの浅はかさに、自分勝手さに情けなくなる。さて、漱石は、修善寺の大患を経て大きな転機が訪れ、晩年の【則天去私】の道に繋がっていくのである。その修善寺の大患の模様は、坂元雪鳥の『修善寺日記』に詳しく示されているが、それは凄惨きわまりないものであった...続きを読む。そして、生き返った漱石は『思い出す事など』で「…余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜まざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。」この漱石の本心が私は好きだ。 Posted by ブクログ 夏目漱石 中 小宮豊隆 漱石が神経衰弱になったときの家族は悲惨であったろう。このように漱石が荒れ狂うのは、漱石の生まれてから幼少期までの原体験がそうさせるのではないだろうか。 Posted by ブクログ 漱石先生と私たち 小宮豊隆 夏目漱石の弟子である筆者による、夏目漱石と周りの人々についての話。 いかに筆者が夏目漱石ラブだったかが伝わってきた。基本全肯定ですから。読んでてこっちも嬉しくなる。夏目漱石の他の弟子についても書かれてて、なんかイメージが具体的になって、ちょっと親しみが湧いてきて、これもよかった。なんか文章も読みや...続きを読むすかった。 Posted by ブクログ 夏目漱石 中 小宮豊隆 愛弟子による評伝、中巻です。 熊本の第五高等学校で教鞭をとっていた漱石は、二年間の英国留学の辞令が出て、ロンドンへ。そして『文学論』の執筆、一度目の神経衰弱、帰国(出発直前に子規の訃報)、二度目の神経衰弱、『吾輩は猫である』の誕生、『倫敦塔』、『幻影の盾』、『薤露行』など短篇の執筆、『坊ちゃん』、...続きを読む『草枕』、『二百十日』の執筆、朝日新聞へ入社、そこで『虞美人草』を執筆、という流れです。 私生活では、妻鏡子が一度流産するも、2年後には長女筆子が誕生し、ロンドンへ発った1年後に次女恒子が誕生、帰国後には三女の栄子が生まれています。 いやはや、漱石が一番大変な思いをした時期だったのではないでしょうか。なかなか自分の思うように動けず、世間、周囲、仕事などへの不満がつのり、イライラピリピリすることが多くなっています。 でも褒められるとやはりうれしいらしく、山県五十雄への手紙では、〈小生の文章を二、三行でも読んでくれる人があればありがたく思います。面白いという人があれば嬉しいと思います。敬服するなどという人がもしあれば非常な愉快を覚えます。この愉快はマニラの富にあたったより、大学者だといわれるより、教授や博士になったより遥かに愉快です〉なんて、すごくうれしそう。 これまで、夏目漱石というと、あの有名な写真が思い浮かび、気難しそうにいつも思い悩んでいるようなイメージでしたが、本書を読んでみると、愉快と不愉快を行ったり来たりしている、とても人間的な漱石さんが立ち現れました。著者が漱石と散歩したときの思い出も、この本ならではのエピソードです。 中巻では、小宮氏が漱石の弟子として直接見聞きしたことが多く語られます。また同時に、これは上巻からずっとそうですが、日記や書簡など多くの資料をもとに書かれており、よくここまで資料を集めて調べてくれたと関心するばかりです。おかげで、ロンドン留学以降の経緯は、まさしく〈漱石が漱石になるための、必要な過程だった〉ことがよくわかりました。 では、いよいよ下巻へまいります。 Posted by ブクログ 漱石先生と私たち 小宮豊隆 修善寺日記とか、奥さんのと比べるとなかなか面白い。さすがは「漱石神社の神主」と言われただけのことはあるって言うくらい、先生絶対、先生ラブ、みたいな感じが伝わって来る。 昔の人の日記を見るといつも思うのが、昔の人って開けっぴろげにケンカしてるよなーって言うこと。今の人はそんなにしないと思うんだけど。自...続きを読む分の周りだけなのかな。 Posted by ブクログ 小宮豊隆のレビューをもっと見る