中世ヨーロッパの概念「王の二つの身体」というのは、不可死的でシンボル的な「王」と、生身の可死的な「王」との二つを指している。なるほど、そういう考え方は理解できるし、現在でも通用するのではないか。
しかしこの本では徹底的に「中世ヨーロッパ」に絞って記述されており、中世特有の「へんてこな論理」が様々な文
...続きを読む献から引用されて面白い。
著者の結論としては、この「王の二つの身体」はキリスト教神学に由来する政治哲学概念だということだ。
とはいえ、この「二重の身体」というテーマはなにも中世ヨーロッパに限られたものだとは思えない。身近な日本現代史を見ても、「象徴」である天皇と、「人間宣言」以降の生身の天皇、というふたつを一般国民は理解しているはずだ。
ラカンの「父-の-名」をもじって言うなら、ここには「王-の-名」という象徴界の存在を指摘できるだろう。本書で引用されるシェイクスピアの『リチャード2世』には露骨にこの思想が刻印されている。
思うに、「王」に限らず<名>をもつことによって、存在は2重の生を強いられるのではないか。<名前空間>の虚構性とその強度については、じっくりと考えてみる必要がある。
たとえば「会社」や「国家」といった<名前>も、具体的にどの実体を指しているのか明確ではないけれども、この<名前>を実体としてかんがえるのでなければ、社会は成り立たない。
そう考えてみれば、人類の文化というのは<名前空間>を出現させ、そのネットワークによって社会を組織するということに最大の特徴があると言えるだろう。<名前>の言表と共に王の身体がふたつにわかれ、そこから文化や社会が機能し始めるのである。