見渡すあらゆる地平にはるか遠く空を抱く純粋さを示す場所なのか、吹き荒ぶ凍りついた風が大地の岩に引っかき傷を作りながら突き刺さる太陽の痛みを記録する失われた場所なのか。
ひととひとの単調に繰り返す営みに馴染めない者がやがて吹き溜まる場所なのか、ひとがひとらしく強さと弱さをそれぞれに見せながら生きる都会
...続きを読むから少しばかり遠い場所なのか。
記憶はやがて薄れるものではなく、次第に好きなように姿を変えるものである。どこか本棚の隅にしまい込んだはずのパタゴニアの大地の写真は、到底自分が自分の脚で歩いて撮ったものでもなく、雑誌の付録としてあったグラビア印刷の広告だった。その荒涼とした大地には確かに道であると脳の奥でだけわかる砂利の川が流れ、特段憧れるような美しい風景が写っているわけでもなく、ただその見慣れない風景に漠然とした憧れのようなものを感じたのだった。同じ名前のアウトドア・ブランドに少しだけ惹かれていたということもあった。実際、それがどんな写真だったかも覚えていないが、ただひたすら月に降り立ったかのような異空間は、やがて機会があれば一度は見てみたい場所となったのだった。
暫くして再会したパタゴニアは、その南の隅にあるウシュアイアという街となってテレビの中に現れた。南極に向かう船の出発点として、そこはどこか他人事のような風景を引き摺ったコンクリートの街だった。きっと南極に向かう船が眩しかったのだろう。まさにそこにいて頑強な灰色の船に乗り込んだ知人は、ただ美しいと言って多くを語らなかった。それがパタゴニアの習いというものなのだろう。もちろん、一度も行ったことのない遥かな憧れとして。
旅行記の新たな地平を切り開いたとされるこの作品は、現実と幻想がどこかで交錯するフィクションでもある。そこでは時間までもが行き来する。それでいて、それは疑いようもなく紀行文である。読者はいつのまにかパタゴニアを放浪し、太古の時代から現代までを見晴るかす。時に強風に潮がセールをもぎ取って行く海峡を超え、時に銃弾の乾いた音に身構える。そうやって読み終えた時、遠いパタゴニアはそこにある。