大正時代の黒耀会や望月桂の発見の話も取り入れつつ、アートは、自由、ポリティカル、マイノリティとの共感、という要素をラディカルに投影するべき、という作家二人の対談。
また、対話や調停、融和より、闘争を全面にした作品表現の正統性も語る。
バブル崩壊前まであった「個」の作家性や作品にシンパシーを感じていて
...続きを読む、反対に現在の作家や作品がすべからく「公」を意識する、あるいは従うという空気を批判する。
言うなれば「行き過ぎた人権思想」や「自由の氾濫」という最近の社会の言葉へ、反対(または追及)している立場。
とはいえ、二人とも現代美術史の知識は大変豊富である。二人のラディカルな芸術活動の過程で、独りよがりに陥らないように理論武装してきたのだろう。生き抜く過程で結果的に鍛えあげられできた「美術理論の筋肉」といったところか(但し松田の書いた「あとがき」には書籍化に際し、専門書や編集者、専門家に相談して「大幅な加筆修正」をしたと告白している)。
後半は批判だけではなく、その「公の時代」にどんな作品が成立可能かを戦略的に少し考察する部分もあるが、有効なアイディアを出すのは難しいようである。
現在が自由、そして民主主義、個の権利が先鋭化した状況と捉え、#metoo、シールズが勃興すると同時にQアノン、在特会などが生まれると分析。その中で、自由や民主主義に希望を持っていた過去に行われた読売アンパンのようなものを現代に持ってきても効果は無いとか、実際に行われた「東京インディペンデント展2019」が面白く無かったと説明している。一方、公海上に無国籍の住所を作る構想「シーステディング」には可能性を見いだしている。
その中で「有効なアイディア」として少しだけ提案されたのが「ダークアンデパンダン展」。観客を「キュレーション」して、半ばクローズドで展示されるシステム。これが運用できれば、一般公開出来ない作品(卯城はチンポムの作品にそれが存在していて、「マスターピース」であると言っている)が公開出来るとしている。
全体として、日本社会の構造的・風潮的欠陥を指摘する部分が多い(海外の表面的事例を普遍化して取り上げる所謂「海外デワノカミ」的指摘)が、実際には本書の命題についてのトラブルは国の内外問わず起こっていると思われ、いささか過度に国内批判的な論調になっていると感じられる(とはいえ日本国内の閉鎖的な風潮にウンザリするのには同調できる)。これは彼ら二人の実践の場(日本国内中心の作家活動)が影響しているのであろうから、仕方がないかもしれないが。
また、「中卒」とか「鑑別所上がり」とか、自らの学歴や悪い生い立ちのようなものを殊更に強調する場面が度々ある(特に松田)。この露悪的姿勢がルサンチマンとして何か「反骨の原動力」になっていると説明したいのだと思われるが、これが「逆説的な選民意識」に陥っているふしがある。執拗なこれらの主張は、立場の違う他者からの共感を取りこぼす要因になっているのではないかと感じられる。
現在のキュレーションの強い展覧会←逆→アンデパンダン展124
今の上野の野球場にあった東京市自治開館で1926年、日本初?のアンデパンダン展「大理想展」が開催された126
ボイスの「全ての人は芸術家」は「社会彫刻」と言う130
「滅私奉公人」=ネット空間で炎上・祭りを行って無思慮に全体主義的な世論を作り出す人々(ネトウヨ)。松田155
ナチスの退廃芸術はマックスノルダウに「近代芸術は脳の病気」と言われた。戦後これを総括して始まったのがドクメンタ。しかし日本にはドクメンタに当たるものは無い178
「平和の少女像」と白川昌生「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」の写真が掲載189
マジョリティの文脈とかバックグラウンドを理解したうえで、ユニークな作品を作るのが「公の時代」のアートのひとつの戦略。典型的な例は小泉明郞の『空気』(皇室の家族肖像の人物が全て消されている絵)。この作品は天皇を扱う作品だったが炎上しなかった。作品の佇まいもミニマムで上品で最高だった。ダヴィンチコードならぬメイローコードと言いたい229
インテレクチャル・ダークウェブ(IDW)性別や人種などポリコレでアンタッチャブルになった科学的研究分野を、学会などを介さず地下で議論・研究するダークウェブ281
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