タイトルからは、黒田日銀のQQEについての批判を書き連ねたものとの印象を受けるし、実際そういう部分もあるが、それは著者の視座の一部に過ぎない。
著者の関心は、この壮大な実験の来し方と行く末であり、それを可能にした「力」の分析である。
国債市場を壊された債券の現場からの単なる怨嗟の声として切って捨てる
...続きを読むには、重く冷静な論理構成が続く。
日本における大規模な金融緩和という実験の根拠となったのは、米国の経済学者たちの「アドバイス」だが、彼らの理論をつまみ食いするのではなく、その源流から検証すべく第1章はアダム・スミスである。
そこから古典派とケインズ学派のせめぎあいを丹念に追った後、米国において両者が融合する形で、金融政策を軸に景気を操作する理論体系が出来上がったところまでを見る。
また、米国の経済史では忘れてはならない2008年のリーマン危機について、それを発生させた環境と材料とを追っている。
鍵となったものとして、スワップ取引の誕生に伴うイールドカーブの標準化と、そこでの利用を企図されたLIBORの英国の国策としての発展、それに冷戦後の継続的な金利低下やコンピュータの進歩といったところを挙げている。
ちょうどグリーンスパンがFRB議長として君臨していた時期にその萌芽は見られるが、この時期の米国での金融機関に対する規制緩和もあわせて、フリードマンの理論の裏にある思想とも重ねながら、国家による管理に嫌悪感を見せるユダヤ人の傾向と見て取るのが面白い。
一方、米国発のこういった新自由主義的色合いの強い思想が日本に輸入された際、「反規則」や「市場重視」という掛け声が、ビジネス志向的なものよりは反官僚支配的なものになったことを著者は指摘する。
その思想の支持者として「サイレント・マジョリティ」というマス集団を媒介にして本書の論考は進むが、その概観・定義づけが秀逸である。
かつて民主党政権の誕生の後押しもし、みんなの党や維新、またその大阪都構想も支持する層で、決して社会の弱者ではないので、表立って政府や政治家に分配を求めたりはしない。逆に弱者を過剰に保護することは自分たちの利益を奪うものとして反対する。
また、新自由主義的な路線を好むので官僚機構の暴走と見えそうなものには手厳しい、と。
このような層が生まれた背景として、1990年代以降、冷戦終了に伴い右派・左派双方ともその拠り所が消えたことを挙げている。
(一方で19世紀以降の民主主義体制の確立に伴い生まれたものともしており、本書の中でも「サイレント・マジョリティ」という語がマジック・ワードになってしまっているきらいはある。
単に90年代以降の多数派の思考・志向の説明にとどめておいても良かったのかなという気もしなくもないが、そうすると著者の問題意識としての後述の20世紀初頭との比較が唐突になるので難しいが。)
著者の結論としては、このような多数派層による自らの権利の主張が、実質的には何らかの分配の要求となってしまっていること、またマス集団であるために、分配を求める対象もマスとならざるを得ず、現代的な解決として「将来世代」からの搾取となったこと、またそのことが十分に当事者に説明されていないことが問題だとしている。
ただ、それらの指摘についても極めて冷静に、抑えた筆致で進むのは、著者も自身をサイレント・マジョリティの一員として主体的に引き受けているということもあるが、それよりも安易な仮想敵を作りそれを攻撃して事足れりとする流れを良しとしなかったゆえだろう。
20世紀初頭のような時代であったならば、その対象が対外的な方向に向かったのではないか、という指摘は怖さを覚える。
一時期の日銀への罵倒に近い批判(「白川を討て!」など)には、そのようなおどろおどろしさもあったのであり、鬼畜米英とか暴支膺懲などと同じ臭いもしていたのである。
既得権益・守旧派・マスゴミ、分断を煽る言葉はいくらでもあり、著者も言うように、それらはそれを消費したい人間に都合よく消費される。
ところで、これまでの日銀が既得権益だとして、果たしてそれはどんな権益を守っていたのだろうか。
日銀は中国の覇権のために働いている、というような言説もあったが、これなどはトンデモの類だろうと思う。
また、そもそも、景気を上向かせることが必要であるとしても、なぜデフレ脱却をすればそれが可能なのか良くわからなかったのだが、ある意味では意図的に曖昧にされたまま、金融政策として実施されたことが本書を読んで分かった。
ただ、経済学徒ではない自分には、著者の言うように、日本においては金融緩和が効かなかった(物価があがらない)ことの原因が、貯蓄の影響力が強いからなのかどうかは判断しかねる。
とはいえ、その説明が正しいとすると、より一層高齢化が進む日本経済の処方箋に、これからますます若年層の人口が増加する米国の理論をそのまま当てはめても、まったく頓珍漢な結果になることは火を見るより明らかなのではなかろうか。
例えば、それがどんな提案だったとしても、フリードマンが二ヶ月ほど日本に滞在したことがあるから知日派だ(だから日本についてのアドバイスにも盲従すべきだ)、などというのは冗談にも程がある。
それに、二ヶ月の滞在経験で一国の金融政策をアドバイスされたらたまったもんじゃないと思う。
いずれにせよ、今までなんとなく米国のベビーブーマーと日本の団塊世代を重ね合わせたりしながら、経済的にも単なる西側世界の第1,2位の大国の比較としてあれこれを考えてきたことのほとんどを、疑ってみないといけない。
つまり、日本における常識から自動的に導き出した結論で各政策やその背景となる理論を分析するのも避けたい。
例えば、本書にある金融政策がゼロサムだという主張である。
何を以てゼロサムとしているのだろうか。単に金利を下げた分はいつか上がるだろうからゼロサム、というのならばずいぶんと乱暴な議論だ。
もちろんそこまで単純なことを言っているのではないにせよ、「人口は減少。高齢化も進む。経済は実質ではかろうじてプラス成長と思われるが、デフレ(=物価下落)なので名目ではほぼゼロ成長」というのが長らく常識だった日本のイメージで考えては誤りそうなところもあるのではないか。
例えば、人口が増え続ける米国において次のようなシミュレーションを考えてみる。
現在の金融緩和と将来の引き締めの結果、経済成長でみて、現在10の押し上げが将来の10の押し下げになるとして、これを率に倒すと、現在は1%の押し上げだが、将来は人口も増えていて分母も大きいので0.7%の押し下げで済む。だから問題なし、というようなことはないのか、ということだ。
また、本書での説明では、緩和による金利低下がもたらす投資は従来設備の更新や合理化にとどまるので将来の支出の先食いに過ぎない。能力増強を伴う投資には成長期待がなければならない、とある。
あえて反論するならば、従来設備の更新であってもその設備の生産元には受注増になろうし、それによる雇用の増大だとか関連事業での起業が発生したりということはないとも限らない。それにより失業率が低下し婚姻率も上がり、しばらくして出生率も上昇、なんてこともありえない話ではない。
もちろんこれらは単なる空想の域を出ない為にする議論であるし、ゼロ金利やマイナス金利によって生じる性質のものでもないだろう。
しかし、リフレ派の「希望」というのは案外このあたりにあったのではないか。
というより、それを踏まえてリフレ派の主張を読むとよく理解できるのだ。
「奴らは、ゼロサムだから意味がないと言って緩和を出し渋っていやがった。だから景気は悪化した。それゆえのロスジェネの婚姻率低下、出生率低下。で、分母縮小の結果としての今がある。」という具合に。
この視点から批判的に検討してみるならば、ゼロサムだから意味がない、と断じる態度そのものが「デフレ・マインド」だったのかもしれない。
そうであったとしても、その払拭とやらは金融緩和くらいじゃ難しいし、それによって人口を増やすなどということはもっと現実味がないわけだが。