田中圭一×『双星の陰陽師』助野嘉昭先生インタビュー
手塚治虫タッチのパロディーマンガ『神罰』がヒット。著名作家の絵柄を真似た下ネタギャグを得意とする。また、デビュー当時からサラリーマンを兼業する「二足のわらじ漫画家」としても有名。現在は京都精華大学 マンガ学部 マンガ学科 ギャグマンガコースで特任教授を務めながら、株式会社BookLiveにも勤務。
インタビューインデックス
- 学園祭実行委員会は、漫画家生活よりハードだった!?
- 受賞後のスランプから掴んだ、物語のセオリー
- やりたかったのは、学生時代に打ち込んだ「お祭り」の再現
- 「別れて終わり」は決めていた! 大切な一コマ
学園祭実行委員会は、漫画家生活よりハードだった!?
――助野先生は、現在僕が教授を務めている京都精華大学のマンガコース出身なんですよね。今回は、そういうご縁もあるので、学生時代のことなどもぜひ教えてください! 入学は何年になりますか?
ちょうど2000年の入学で、マンガ学科ストーリーマンガコースの第1期生になります。開設したばかりのコースでしたから、当時は先生たちも何を教えたらいいのか試行錯誤しながらだった記憶があります。卒業式の日に外国人の先生から冗談で、「君たちはモルモットだった」と告白されたくらい(笑)。
思い返すと、「この授業必要かな」っていう授業が次の年にはなくなっていたり……。でも、それも含めていい思い出ですし、僕の漫画家人生が京都精華大学から始まったのは間違いありません。
――もう15年ほど前になるんですね。マンガコースの同期や後輩で、プロとして活躍されている方というのは?
同期だと『血潜り林檎と金魚鉢男』の阿部洋一くんですね(※1)。『ゴロンドリーナ』のえすとえむさん (※2)、『日々ロック』の榎屋克優くん(※3)は後輩になります。『恋染紅葉』のミウラタダヒロくん(※4)もマンガ学部卒ですね。
『坂本ですが?』の佐野菜見さん(※5)はカートゥーンコースでしたが、僕の現場に1回だけアシスタントとして来てくれたことがあります。榎屋くんくらいの世代から、在学中にデビューする人が出てきましたね。僕たちの世代は、在学中は賞もろくに取れず、卒業してから「そろそろ真面目にやるか~」ってやつらばかりでした。僕もその一員だったんですけど(笑)。
――でも、そうやって学生の頃に遊んだりしていた経験が、作品を作る上での血肉になっているんじゃないですか?
それはものすごくあります。僕は「学園祭実行委員会」に入っていたんですけど、それが体育会系でものすごくキツかったんです。部室になっているプレハブがあって、みんなそこに住んでいるような状態でしたね。僕もほぼ住んでました(笑)。
実行委員会が一番盛り上がるのは、年に2回ある学園祭の時ですが、準備期間中はずっと泊まりこんで、ポスター作りやTシャツ作りをしてました。けれど、先輩に誘われたら飲みにも行かなきゃいけないし、学園祭期間中も、3日間ほぼ不眠で運営にあたるという状態でした。変な人が学内に入ってこないように、警備までして、「では解散!次は朝8時に集合!」って言われるのが朝の7時なんです(笑)。
でも、この実行委員会で体験した“達成感”は、本当に大きな糧になっています。ここで根性が鍛えられて、漫画家になってからも「実行委員よりはマシ」って思えるくらいですから。当時よりつらいと思ったことは一度もないですね(笑)。
――マンガ連載が霞んじゃうくらいの「つらさ」なんだ(笑)。でも、10代のうちに地獄を見ておくと、大概のことで覚悟が決まりますよね。助野先生は、もともとリーダーシップをとって、まわりを引っ張っていくタイプなんですか?
いや、それが全然そうじゃなかったんです。
僕は高校の時までは絵に描いたようなオタクで、社交性もなくて、ある意味「自分を変えたい」という思いで、大学祭の実行委員会に入りました。大学受験の時に資料が届くじゃないですか。そこで「学校に寝泊まりして学園祭を作りあげているやつらがいるらしい」ってことが分かって。面白そうだと思ったんですよね。
――じゃあ、京都精華大の学園祭実行委員会が、助野先生のターニングポイントになっているんですね。人間的な内面も含めて。
本当にそうですね。根性もそうですけど、社交性が身についたというのも大きいです。マンガを描くこと自体は一人でもできますが、それを世に送り出すには、担当編集さんやデザイナーさん、スタッフの方々とのコミュニケーションが必要じゃないですか。オタクのままでいたら、そういうコミュニケーションスキルも得られなかったと思います。そういう意味では、京都精華大に入っていなかったら、今頃は関西で売れない漫画家としてくすぶってるか、東京で誰かのアシスタントをやっていた気がします。
――マンガって共同作業ですもんね。人とどう接するかの基礎訓練を、大学生活の中で積んでいたわけですね。もっと言うと、読者にウケるマンガを生み出すということは、「読者という“他人”との距離を正確に読み取れるか」ということでもありますよね。その距離を見誤らないようにするための訓練はすごく大事です。
受賞後のスランプから掴んだ、物語のセオリー
――漫画家になるきっかけというのは?
赤塚不二夫先生(※6)の作品の影響は、強く受けていると思います。
――そうなんですか!? ちょっと意外ですが、接点はどこに?
アニメからです。小学校の頃は、再放送も含めてけっこうテレビでやっていたんですよ。『天才バカボン』『もーれつア太郎』『おそ松くん』などを夢中で観ていました。
マンガ雑誌でいえば、『コロコロコミック』と『コミックボンボン』ですけど、僕は『ボンボン』派でしたね。当時の『コロコロ』はミニ四駆とかドッジボールとか、外で遊ぶ社交的なものが多くて、逆に『ボンボン』はプラモデルとかゲームとか、インドアなものが多かったので……。
――なるほど。当時はまだ「オタク」モードの助野先生だったんですね。
そうですね(笑)。『ボンボン』の中にも、赤塚不二夫作品がありました。その時にニャロメやバカボンのパパの絵を真似て描いていたのが、漫画家の原点かもしれないですね。
――そこからは、やっぱり『週刊少年ジャンプ』ですか?
はい。僕が読み始めた頃は、すでに『ドラゴンボール』は大人気で、みんなが読んでいました。僕は『SLAM DUNK』にとにかくハマりましたね。それから『幽★遊★白書』。この三大看板は強力だったと思います。
――発行部数600万部を超えた、ジャンプの黄金時代ですね。助野先生のジャンプ的な絵や表現というのは、そのあたりの影響も受けてますか?
絵を学ぶ上ですごく参考にさせていただいたのは、『ONE PIECE』の尾田栄一郎先生です。影響はかなり受けていますね。あとは、アシスタントをやらせていただいた、『ロザリオとバンパイア』の池田晃久先生(※7)です。この方は僕の師匠でもあり、技術的なものも、プロとしての心構えも、すべて池田先生から教わりました。
――実は、僕自身はアシスタントの経験がないんですが、アシスタントをしてみて、助野先生の目にプロの仕事はどう映りましたか?
僕はその時、『帰って下さい。』(※8)という読切作品を描いた後だったんですが、現場でプロの仕事を目の当たりにして「僕のマンガなんて子どもの落書きだ」と、かなり打ちのめされた覚えがあります。もう、使ってた道具から考え方から、すべて叩き直された感じというんでしょうか……。
――考え方というのは、具体的には?
ざっくり言うと「ちゃんと描け」ってことですね。それまではパースもちゃんと取ってないし、読ませるための努力も足りていなくて、かなり“適当”だったことを思い知らされました。プロは細部まで理にかなった描写をして、演出的にも工夫が詰め込まれている。まったくレベルが違いました。
それから、「こだわり方」ですね。「もういいだろう……」って思ってしまいそうなところから、さらにこだわってこだわってこだわり抜く! みたいな。
――そのくらいやってこそなんですよね、漫画家って。例えば、江口寿史さん(※9)や吾妻ひでおさん(※10)は、還暦過ぎても女子高生を観察して、スケッチしているそうですから(笑)。
たまに「そこまでする必要ある?」と思ってしまうこともあるくらい(笑)。
――日本人には、完成しているところからさらに作り込むという、こだわりのDNAがありますよね。でも、そういったプロフェッショナルの姿を間近で見られるという点で、アシスタント経験はすごくいいなと思います。
でも、あまり長くとどまったら芽がつぶれるということで、ある先生のところ では、「2年で卒業」と期間を決めていると聞いたことがあります。
僕は机の数が足りなくてパソコン机で作業をやらされた時に、死ぬほど腰が痛くなって「1日でも早く辞めてやる!」って思っていました(笑)。
――以前、藤田和日郎先生にインタビューした時にも、同じようなことを言われてました。「早く出てけ」と。早く独立させたいということなんですよね。
ところで、『貧乏神が!』の連載ネームは、アシスタント時代に描いていたんですか?
アシスタント中は別の読切作品を描いていました。その途中で『月刊少年ジャンプ』が休刊になり……。僕としては「辞める理由が見つかった!」くらいの勢いでしたけど(笑)。
――では、アシスタントを辞めて、『ジャンプスクエア』が創刊されるまでに連載準備を始めていたんですか?
いえ、その頃は「貧乏神もの」を描くのを止められていて、別の作品を描いていました。『ジャンプスクエア』が始まってから、貧乏神ネタが解禁されたんです。それまでは、手塚賞(※11)で入選した『帰って下さい。』を超えようと苦戦していました。
自分で言うのも変なんですが、『帰って下さい。』は、いろんな意味で当時の自分のレベルを超えてしまっていた作品で、この作品以降、編集さんからの要求も上がって、すごくつらかったですね。
――確かに、手塚賞はなかなか「入選」が出ないことで有名な賞ですよね。
僕の時も「これは準入選でいいんじゃないの」という声があったそうですが、尾田栄一郎先生と稲垣理一郎先生(※12)がすごく推してくださったと、あとから聞きました。
――それはすごい! ジャンプマンガのような「熱さ」は、現実にもあるんですね。
長い間、活躍されている方たちほど熱いですよ! 編集と漫画家が、殴り合いになる勢いで作品について議論したり……なんてことも、あるとかないとか(笑)。
――そういう人たちが、世界で一番売れるマンガを描いているんですね。
世界で一番熱い人たちが描いていると思いますよ。アシスタント時代に「少年マンガみたいに熱い気持ちを、大人になっても持ち続けられるものなのか?」と、疑問に思っていたんですが、いざ自分がプロデビューしてみると、全く逆でした。デビューしてからが一層熱くあるべきで、逆にそのくらいの熱さを持っていないと「漫画家として話にならないんだ」ということがよく分かりました。
――ネタに行き詰まってつらい時に、「フォーマットやロジックでマンガが描けたらな」と考えることがあるのですが、やっぱりそれはパッションで作った作品には絶対に勝てないですよね。
確かにそうなんですけど、そこには若干の矛盾があって……。先人たちが作り上げて、洗練してきた物語のフォーマットというものは、確実に存在していると思うんです。ただ、それに則って描けば、いい作品ができるというものでもないのですが。
新人の頃に描かせてもらっていた読切作品は、ほとんどが「主人公が雑魚を倒して、その後に主人公の生い立ちが語られて、最後に強い敵が現れたところを倒してハッピーエンド」という作りになっていました。それに「つまらなさ」を感じていたんですね、自分の作品じゃないみたいで。それで苦しくなって、半年くらいマンガが描けなくなった時期があったんです。ちょっとノイローゼみたいになってしまい、漫画家を辞めようとさえ思ったこともありました。
その時に相談に行ったのが、京都精華大学の竹宮惠子先生(※13)でした。すごく親身に相談に乗っていただいて、ネームも見てもらって……。その時、先生に「学生の時でも、こんなに見てもらったことはないですよ」って言ったら、「それはあなたが訊きに来ないからよ」と言われたことが、強烈に印象に残っていますね。
そして、竹宮先生の助言で乗り越えてできあがった作品が、驚くことに、「自分が毛嫌いしていたはずのフォーマット」に乗っていたんです。
――一周して、原点というか、セオリーに戻ってきたわけですね。
はい。でも、初めからそういうフォーマットに乗せてストーリーを考えるのではなく、「ここで絶対に雑魚を倒す必要がある」「ここで絶対に一度挫折する必要がある」というストーリー上の必要条件が、“描き手の実感”を伴って盛り込まれていくことが必要なんだと思っています。
――やっぱり自分が楽しんでいるか、物語の運びに納得しているかということは大きいですよね。助野先生はたくさん悩み抜いて試行錯誤しながら、自分の力で物語を構築してきたというのが分かりました。
やりたかったのは、学生時代に打ち込んだ「お祭り」の再現
――次は、初連載作である『貧乏神が!』について聞かせてください。この作品には、助野先生の好きなものが全部詰まっているんだろうな、と感じたんですが。
「お祭り」をやりたかったんです。最初から。いろんなキャラクターがたくさん出てきて“どんちゃん騒ぎ”になる……というのが、大学で学園祭実行委員をやっていた頃から変わらない「僕にとって面白いこと」なんですね。
――最終回に向かうクライマックスでは、今まで出てきたキャラがみんな登場して、力を合わせて最後の敵を倒すというのは、ジャンプマンガの王道ともいえる展開で、マンガとしての面白い要素がかなり詰め込まれていますよね。
学生時代に友人と「祭りの楽しさって何だろう?」という話をしていた時に、彼から「いろんな種類の面白いものが詰め込まれているところじゃないか」という答えが返ってきたんです。
メインステージでは有名バンドがライブをやっていて、ホールでは面白そうな自主映画が上映されていて……全部が楽しそうで、どこに行こうか迷ってしまうような状況こそが、祭りっぽい楽しさだと気づいたんですね。それをマンガに詰め込んだのが、『貧乏神が!』の終盤の展開です。
――クライマックスで登場キャラクターが勢ぞろいするという展開は、『みなしごハッチ』や『うしおととら』にも見られる、ある種のフォーマットですよね。
僕らの世代だと『鋼の錬金術師』がそうですね。20巻くらいからの盛り上がり方が半端じゃないです。
――「祭り」というアプローチから、そのフォーマットにたどり着いたというのが興味深いですね。
ほかにも、『バクマン。』(※14)から影響を受けている部分もあります。元々、クライマックスのだいたいのイメージはできていたんですけど、『バクマン。』の中で、ジャンプ編集部の吉田さんというキャラクターが「今まで出てきたキャラクターを総動員して盛り上がらない方がおかしいからな!」みたいなことを言ってるんです。それを読んで「よし、キャラクターいっぱい出そう!」って(笑)。
――なるほど、背中を押されたんですね(笑)。
ところで、これはぜひ聞きたかったんですが、『ジャンプスクエア』のラインナップで女の子2人の主人公というのも珍しいですよね。「男を主人公にしろ」とは言われなかったんですか?
「当たり前の設定」から“ハズして”いった結果が、女子2人のストーリーなんです。
構想段階では、読み切りの『帰って下さい。』の続きみたいなイメージで、男が主人公の予定だったんです。でも、「ちょっと変わったことをしたほうがいいんじゃないか」ということで、女の子にしようと。さらに、「打ち切り寸前のマンガにはテコ入れに巨乳の女の子が出てくる」という、あるあるネタを逆手にとって、はじめから出しちゃおうと。で、さらに“ハズし要素”として、性格も悪くしました(笑)。
――王道の中にある異物が、うまくスパイス的に機能していますね。女主人公にしたのは、「女子ウケのいい作品が多い『ジャンプスクエア』の中で、男性読者をつかむためのバランス調整かな」とか邪推してしまったんですが(笑)。
深夜アニメやラノベ全盛の今だったら、そういう考え方もアリだと思うんですけど、連載を始めた2008年前後では、まだそういうのはなかったですね。「涼宮ハルヒの憂鬱」がアニメになったくらいで、まだ「女主人公がメインを飾る」こと自体が目新しい時代でした。でも、そこから1〜2年して、『ジャンプSQ.II(ジャンプスクエアセカンド)』で新人の読切作品を見たら、半分以上の主人公が女の子だったんです。それに驚いて、次に描くならガチムチ系の男主人公だ! と思っていたら『トリコ』(※15)が来て。僕の考えは間違いじゃなかったと思いました(笑)。
――なるほど。でも、助野先生の作品は、主人公が巨乳で、たまに揉まれたりしているのに、不思議と「エロさ」は感じないんですよ。お会いする前は、「助野先生って実は女性なのかな?」と思うくらい、男目線のエロじゃないんです。
意識していたのは、高橋留美子先生の『らんま1/2』ですね。女らんまが裸で走り回ったりしているけど、ぜんぜんエロくないじゃないですか。さっきの話で言うと、高橋留美子先生の作品も“お祭り感”満載ですよね。『うる星やつら』は「文化祭の前準備」という感じです。「ハルヒ」もそうですね。
あと、性格が悪い市子のところに紅葉がやってくるというのは、ダメなやつのところに居候がやってくる『ドラえもん』的な構図ですね。
――『貧乏神が!』を読んでいると、助野先生の好きなものを思い切り詰め込んだ幕の内弁当みたいな印象があって、楽しそうに描いているのが伝わってきました。これまでに読んできたマンガが、助野先生の中でお祭り騒ぎしているわけだ。
本当に好きなものを詰め込んだ、というだけなんですけどね(笑)。
「別れて終わり」は決めていた! 大切な一コマ
――そして本題です。今回の「一コマ」として選んでもらったのは、第16巻の最終回のクライマックスで、紅葉が市子の元を去るシーンですよね。
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双星の陰陽師 ―三天破邪―
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