田中圭一×『鉄腕バーディー』ゆうきまさみ先生インタビュー

ゆうきまさみ先生インタビュー

「漫画家が命を込めた一コマ」にフォーカスした独占インタビュー企画!第8回は『機動警察パトレイバー』『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』などのヒット作を持つゆうきまさみ先生だ!パロディーマンガが原点ということで、僕も非常に親近感を感じるゆうき先生。その“渾身の一コマ”とは!?
[インタビュー公開日:2015/03/04]

今回のゲストゆうきまさみ先生

ゆうきまさみ先生

北海道出身。1980年、『月刊OUT』にて「ざ・ライバル」でデビューし、『機動警察パトレイバー』で第36回小学館漫画賞(少年部門)を受賞。
代表作に『究極超人あ~る』『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』『鉄腕バーディー』などがある。
現在『週刊ビッグコミックスピリッツ』にて『白暮のクロニクル』を週刊連載、『月刊!スピリッツ』にて『でぃす×こみ』をシリーズ連載中(いずれも小学館)。

今回の「一コマ」作品  『鉄腕バーディー EVOLUTION』

女宇宙捜査官・バーディーの捜査の巻きぞえで瀕死の重傷を負い、緊急措置で人格のみを彼女の身体に移した千川つとむ。“二心同体”になったつとむとバーディーが繰り広げるSF大作。
ゆうき先生が「唯一、描きたくて描いた作品」と言うほど、思い入れのある作品。サンデーでデビューした初期に月刊連載を始めたものの中断。自らの手でセルフリメイクしたことも話題となった。

インタビュアー:田中圭一(たなかけいいち) 1962年5月4日生まれ。大阪府出身。血液型A型。
手塚治虫タッチのパロディー漫画『神罰』がヒット。著名作家の絵柄をまねたシモネタギャグを得意とする。また、デビュー当時からサラリーマンを兼業する「二足のわらじマンガ家」としても有名。現在は株式会社BookLiveに勤務。

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インタビューインデックス

  • "無趣味な人"が、運良く(!?)踏み出した漫画家への道
  • サンデー連載を蹴った!? 少年誌デビューの裏に "人とのつながり"
  • 新しい読者をサンデーに連れてきた『究極超人あ〜る』
  • 「恥ずかしいものは描けない」ゆうき版『パトレイバー』への想い
  • 「3時間眺めてほしいくらい!」こだわりアクションシーン

"無趣味な人"が、運良く(!?)踏み出した漫画家への道

――僕の、ゆうき作品との出会いは、アニメ雑誌『月刊OUT』(※1)なんです。
まだ世の中がガンダムを評価する前、一部のマニアが「すげー」って騒いでいた頃に、ゆうきさんがガンダムのパロディーマンガを描いていた。本当に"ちゃんとした絵"で、アムロの台詞が古谷徹さん(※2)の声で聞こえてくるようでした。
「こんなのありなの? ここまで似せていいの!?」と思いましたよ、その時は! 今の僕にそれを言う資格があるのか分からないけど……(笑)。
それではまず、漫画家として歩き始めたきっかけを聞かせてください。

当時、東京でサラリーマンをやっていたんですよ。メガネの卸問屋だったんですけどね。御徒町に勤めていた時期があって、その頃に江古田の「まんが画廊」(※3)という、マンガ好きが集まる喫茶店を知って出入りするようになったんです。

※1 『月刊OUT』
1977年から1995年にかけて発行されていたサブカル系雑誌。アニメをテーマにした企画が多く、アニメを元ネタにしたパロディー「アニパロ」はこの雑誌から広まった。
※2 古谷徹
『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役で知られる大御所声優。代表作に『巨人の星』(星飛雄馬)、『ドラゴンボール』(ヤムチャ)、『美少女戦士セーラームーン』(地場衛)など。
※3 まんが画廊
かつて東京都練馬区の江古田駅近くにあり、アニメやマンガの愛好者達の集い場となっていた喫茶店。ゆうきまさみ、しげの秀一、川村万梨阿、とまとあき など、その後マンガ・アニメ界で名を馳せることになる人物たちが常連客であった。

――マンガ好きにとっては聖地ですよね! まんが画廊は当時から有名だったんですか?

いや、「知る人ぞ知る」って感じじゃないかなぁ。当時あった『ファントーシュ』というアニメ雑誌に「宇宙戦艦ヤマト展」の広告が出ていて、ちょっと行ってみようかなって……。
実は僕、いたって無趣味な人間なんですよ。休みの日に、何をしていいのか分からないような人なんです(笑)。だから、まんが画廊で熱く語り合いたい! みたいな目的があって乗りこんでいった感じではなかったですね。

――まんが画廊でいろんな人と交流する中で徐々にマンガを描かれていった、という感じですか?

1977年の夏過ぎかな。まんが画廊に集まる人たちの影響で、熱気にあてられたようになったんですよね。その流れで、『宇宙戦艦ヤマト』のパロディーマンガみたいなものを描いて、自分でコピーして綴じただけの本を、5部くらい作ったかなぁ。親しくなった人にばらまいて……。
それが思いのほかウケたものですから、気持ち良くなってしまったんですね。そのマンガが、僕がペンとインクを使って最後まで描いた、初めてのマンガなんです。その時、19歳でしたね。

――19歳で初めてペンを持って完成させたというのは、少々遅咲きという感じもします。でも、『月刊OUT』に掲載されたパロディーマンガを見る限り、その実力は確固たるものがありましたから、19歳まで才能が眠っていたってことなんでしょうね。

それまでも、鉛筆で描いたりはしていました。多少はマンガの描き方を知ってる、くらいの感じでしょうか。
OUTで描くようになったのは、まんが画廊の知り合いが、先ほどのヤマトの同人誌や、他の同人誌用に描いた作品に目をつけてくれたのがきっかけなんです。「OUTでパロディー描ける人探してるんだけど、やらない?」と言われて。編集部にスケッチブックを持っていって「こんなん描きますけどいいですか?」って言ったら「それでいいです」と……そういう流れで。
だから、「絶対に自分の作品を商業誌に載せるんだ」という強い意志があったわけじゃないんです。
これはしょっちゅう言ってるんだけど、僕がプロ作家として仕事ができたのは、本当に運が良かったんだと思いますね。

――まんが画廊での人脈がきっかけでデビューにつながるわけですね。やはり、はじめは苦労されたんですか?

マンガの作法みたいなものをほとんど勉強したことがなかったから、最初の頃はペンで描くマンガの描き方がよく分からなくて……。コマ割りというか、マンガのリズムっていうのかな。そういうのも、よく分からなかったですね。今でも分かってないかもしれないけど(笑)。
それで、「どうしてプロの漫画家さんの絵はマンガらしいのに、自分のはマンガらしくならないんだろう」という話をしてたんです。もっとマンガ的な画面にならないものかなぁって。
そしたら、当時まんが画廊で一緒にいた しげの秀一君(※4)が、「こういうのはここに集中線を入れればいいんだよ」と教えてくれたんです。「ああ! いきなりマンガらしくなった!」って(笑)。

※4 しげの秀一
『頭文字D』『バリバリ伝説』で知られる漫画家。
「もともと彼はSFマンガとか描きたがってて、当時はヤマトのマンガ版で有名な ひおあきら さんのアシスタントをしてた時期もありましたね」(ゆうきさん)

――あのしげの秀一さんが集中線をレクチャーしてくれたんですか! すごいなぁ。

サンデー連載を蹴った!? 少年誌デビューの裏に "人とのつながり

――OUTのパロディーマンガが載ってからしばらく、アニメ雑誌にアニメパロディーの読み切りをいくつか描かれていましたよね。それからしばらくタイムラグがあって、『週刊少年サンデー』で連載を始めるまでに、どんないきさつがあったんでしょう。同人的なパロディーから、メジャーな少年誌でやろうと決心された理由は?

いや、決心ということでもないんですけどね。これもまた、いろいろな人と知り合う中での"流れ"なんですよ。
OUTをやっているときに、『月刊アニメック』(※5)というアニメ雑誌の編集部にも出入りするようになったんです。その編集部に僕と同じように出入りしている出渕裕(※6)という人がいましてね……。なんと、僕のデビュー前の同人誌を買ってくれていたんです。

※5 『月刊アニメック』
1978年から1987年にかけて発行されていたアニメ雑誌。評論・批評に特化した誌面が特徴で、「評価に値しない番組には沈黙を以て応える」というスタンスに共感するファンも多かった。期待される新進クリエイターを積極的に登用したことでも知られ、ゆうきさんもその一人だった。
※6 出渕裕
漫画家・イラストレーター・アニメ監督などの顔を持つクリエイター。特にメカニックデザイナーとして著名で、代表作に『聖戦士ダンバイン』『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動警察パトレイバー』などがある。

――あの出渕さんとは、同人誌つながりだったわけですか!

そう、そこで知り合いになって。出渕くんが下北沢の「パラレル・クリエーション」という、豊田有恒さん(※7)が若いクリエータ—のたまり場として作った事務所に遊びに来ないかと誘ってくれたんです。そのときちょうど出渕くんが、島本和彦さんがサンデー増刊で連載していた『風の戦士ダン』(※8)のメカデザインをやっていたんですね。

※7 豊田有恒
SF作家、推理作家。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原案、設定にも携わった。1980年代を中心に、創作集団パラレル・クリエーションを主宰。出渕裕などのクリエイターが在席した。
※8 『風の戦士ダン』
現代に生きる忍者組織・恐車一族と神魔一族の闘いを描く、痛快アクション&パロディーマンガ。原作を『美味しんぼ』の雁屋哲、作画を『アオイホノオ』の島本和彦が手がけた。

――つまり『風の戦士ダン』つながりでサンデーの方と知り合った?

それもありますし、出渕くんはサンデーでも、里見桂さんや池上遼一さんのマンガのメカデザインをやっていたんですよ。だから、サンデーの編集者がパラレル・クリエーションにしょっちゅう出入りしていたんですね。
僕は当時、パラレル・クリエーションに籠もって「ヤマトタケルの冒険」(※9)という作品の原稿を描いていました。それで、僕のどこが気に入られたのか分かりませんが、サンデー編集者の方が「サンデーで描きなさい」と。
でも、僕はその時、「OUTとアニメックの仕事が手一杯なので、サンデーで描いているヒマがありません」って断っちゃったんですよ(笑)。

※9 「ヤマトタケルの冒険」
倭の国を舞台に、ヲウス(ヤマトタケル)が繰り広げる冒険コメディ譚。『ゆうきまさみ初期作品集 early days』(1)に収録。

――それって断り方として変ですよね!(笑)メジャー誌デビューへの、願ってもないお誘いでしょう!?

その編集者の方も「俺は、サンデーで描けと言われて、こんなに嫌がる漫画家を見たのは初めてだ」って(笑)。

――それは、気持ち的には、サンデーで王道のマンガを描くよりも、OUTやアニメックでパロディーやってるほうが楽しかったとか、そういうことだったんでしょうか?

いや、そういうわけじゃないです。ただ、僕は怠け者で、仕事が非常に遅いものですから……。本当にOUTやアニメックでいっぱいいっぱいだったんです(笑)。

――でもそこからまた口説かれて、最終的にサンデーで描くわけですよね。

とにかく一度小学館に来いと言われまして。「でも、持っていく原稿がありませんよ」と言ったら、「ネームでもなんでもいいから持ってこい」と。
ちょうど描き溜めていたネームがあったので、それを持っていったんです。そしたら、「サンデー25周年の記念増刊号がでるから、君はそこに描くんだ。もう台割切ってるから」と言われて!

――ああ、もう決まってたんだ! 作家の承諾などは別に、見切り発車的な……(笑)。 締切とページが既に決定していたんですね!

そう。それで増刊号で短編を描いて、サンデーデビューです。

――なるほど、いつの間にかチャンスがうまいこと繋がって……という感じがします。ゆうきさん自身が「絶対サンデーでトップを取るんだ!」というのではなく、はじめは趣味が高じて、気づいたら少年誌に……という。
アイドルが後に「私はオーディション受ける気なかったんですけど、友達が勝手に応募して~」みたいに言うことがありますよね。今、それが浮かびました(笑)。

あれは「でもそれ嘘なんじゃないの~?」と思わないこともないけどね(笑)。

新しい読者をサンデーに連れてきた『究極超人あ〜る』

――サンデー時代の初期、今回の一コマ作品でもある『鉄腕バーディー』を、一時的に連載しているんですよね。

1984年の『週刊少年サンデー』25周年記念増刊号の短編『きまぐれサイキック』が事実上のサンデーデビュー作になり、その年の春に、5週連続の短期集中連載をやったんです。その後に『週刊少年サンデー』の増刊で『鉄腕バーディー』、という流れですね。

――僕は勝手に、初期の代表作である『究極超人あ~る』(※10)の方が、『鉄腕バーディー』より先だと思っていました。「EVOLUTION」に繋がる一連のシリーズの前日譚という位置づけなのでしょうか?

いや、あれは前日譚ではなく、プロトタイプ的な感じですね。「月刊でバーディーをずっとやらせてくれるのかな」と思っていたら、「もう君は週刊をやりたまえ。週刊をやったほうが絶対いいから」と言われて。
それで週刊をやることになって、『あ~る』が始まったんです。

※10 『究極超人あ~る』
1985年から1987年にかけて連載された、初期のゆうきさんを代表する学園コメディマンガ。「光画部」を舞台に、個性豊かな生徒・OBたちと、アンドロイドR・田中一郎との非常識な日々を描く。ゆうきさんと親交のある人々が登場キャラのモデルになっていることでも知られる。

――『あ~る』を読んだときに感じたのですが、それまでにゆうきさんが描いていた、「ガンダムやサンライズ系のキャラクターがたくさん出てきて、みんなでワイワイやっている」というノリというか、テイストがそのままだったので、アニメパロディーからファンになった僕としては、スッと入りやすかったです。

僕、あれしか描き方が分かんなかったんですよ!(笑)

――いわゆる、部活に変な人がたくさんいる雰囲気……当時僕らが所属していた漫研やアニ研のように、「エキセントリックなキャラクターが、何かやるでもなく、やらないでもない」みたいな空気や、その中にR・田中一郎のような“異物”が入ってくる面白さ。あのテイストも、「これは俺たちのためのマンガだ」という感覚がして。そういう人たちが全国にいっぱいいて『あ~る』を応援していたんじゃないかと思うんですが。

それは分かりませんけど、OUT時代の読者を引っ張ってきたのは確かだと思います。『あ~る』は女の子のファンが多かった。これもOUTで描いていた影響だと思いますね。
『あ~る』単体でいえば、まぁ駆け出しのマンガですから、ものすごい大ヒットというわけでもなかったけれど、『週刊少年サンデー』という媒体のためにはなったと思いますよ。

――新しいお客さんを連れてきたことは、雑誌にとって非常に意味のあることですよね!

「恥ずかしいものは描けない」ゆうき版『パトレイバー』への想い

――そして、『あ~る』のあと、ついに『機動警察パトレイバー』になるわけです。ゆうきさんや出渕さんといった、「ヘッドギア」(※11)のメンバーが企画を持ち込んで……、というのは有名な話ですよね。

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