ブックライブでは、JavaScriptがOFFになっているとご利用いただけない機能があります。JavaScriptを有効にしてご利用ください。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで100万冊以上配信中!
来店pt
閲覧履歴
My本棚
カート
フォロー
クーポン
Myページ
7pt
「諸行無常(=すべての“実存”は無常である)」。そうブッダが説き始まった仏教は、インドから中国、そして日本へと伝わる過程で、「仏性」「唯識」「浄土」などの「超越的理念」と結びつき、大きく変化していった。「恐山の禅僧」が、ブッダから道元までの思想的変遷を「超越と実存の関係」から読み解く、かつてない仏教史の哲学。
アプリ試し読みはこちら
Posted by ブクログ
はい。調子に乗り過ぎました。僕なんかにこんな難解なものは分かるはずがなかったんです。まるで意味不明のお経を唱えるような気持ちで読んだっていうか文字を追っただけで、エピローグぐらいしか頭に入ってこなかったです。あと100年ほど勉強したら分かるかな?
「苦」に苛まれる「私」の外側に「God」という超越的存在を措定し、そこに救済を求めるのが一神教。 対して釈尊は、絶対不変というものはない、正確に言えば、そのようなものを我々は感得することはできないと看破し(無常観)、自分の外側に解決を求めるのではなく、「私という存在」のありようを諦め(明らめ)る...続きを読むことで「苦」から脱することができると説いた。 その境地が「悟り」と呼ばれるものだが、「悟り」がどういうものであるかは書き残されていない。 種々の宗派はその無常観や悟りを様々なコトバで表現しようとし奮闘するのだが、コトバを駆使する限り、「無常」は表現できない。 そのブレークスルーが著者にとっては道元だったらしいのだが、その辺りの消息は詳らかにされていない。 ただ、釈尊と道元がいてくれて良かったと語るのみ。 各宗派に対する著者のコメントには一々「ちょっと待ってよ」と言いたい部分はある。本書を以て仏教史を理解できたとは考えるのは危険だが、ここで述べられている仏教史は結論に至る過程でしかないので、それはそれで了解しても良いかな。 同じ著者の「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」ほどの衝撃感はなかったが、引っ張り込まれる。 本書は宗教というより、哲学書。 著者は序文で言う。真理とかいったものはどうでも良い、自分に必要だったのは「人は何故死ぬのか、私とはどういう存在であるのか」という問いに答えてくれる、「使える」教えであった、と。 「使える」というのは、「色即是空」の後の「空即是色」を指す筈だが、そこまで踏み込んでないのが、ちょっと残念。
ラディカルな論考。序章の1ページめから驚かされる。実存と超越、ぱっと見ると仏教書にしては変わったタイトルに感じるけれど、考えてみれば、仏教はずっとこの問題に向き合ってきたのだ。親鸞に関する論考は面白かった。自然法爾からあそこまで解体されるものなのか。釈徹宗先生あたりの意見も聞いてみたい。
レビューをもっと見る
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
新刊やセール情報をお知らせします。
超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―
新刊情報をお知らせします。
南直哉
フォロー機能について
「学術・語学」無料一覧へ
「学術・語学」ランキングの一覧へ
苦しくて切ないすべての人たちへ(新潮新書)
「悟り」は開けない
人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答―
試し読み
恐山―死者のいる場所―
覚悟の決め方 僧侶が伝える15の智慧
刺さる言葉 ──「恐山あれこれ日記」抄
生死の覚悟(新潮新書)
『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか
「南直哉」のこれもおすすめ一覧へ
▲超越と実存―「無常」をめぐる仏教史― ページトップヘ