ブックライブでは、JavaScriptがOFFになっているとご利用いただけない機能があります。JavaScriptを有効にしてご利用ください。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで100万冊以上配信中!
来店pt
閲覧履歴
My本棚
カート
フォロー
クーポン
Myページ
2pt
第一次大戦後の混迷のドイツ。青年たちは事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えらるべき弱さだと批判し、「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する。それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという。
ブラウザ試し読み
アプリ試し読みはこちら
Posted by ブクログ
ドイツの社会学の巨人、マックスヴェーバーが1917年にミュンヘンで講演した際の記録。自分が拾ったトピックとしては、導入としての「学者という職業の実際」、「学問=主知合理化の意味するところ」、「学問の限界」、「日々の要求」に大別できるだろうか。どれも興味深く、今なお通用する考え方であると感じたし、こ...続きを読むこに「学問」というものの核が見られるからこそ、語り継がれる名講演とされているのだろう。以下備忘録。 まず導入として「教授という職業の実際」について解説される。これはもしかすると一種のユーモアなのかもしれない。後述に、民主主義を語る教授は、教壇の上では比較民主主義的なこと(事実の列挙)をすべき(政治的主張はすべきではない)と説いていることを踏まえると、職業としての学問を語る前に、あくまで事実の列挙として教授という学問に触れ、その事実の無味乾燥な様をあえて示したのだ…と感じた。 そののち、学問に打ち込む「心構え」の話に入り、本題の様相を見せる。まず、彼は学問に向く人間として情熱を以て専門性に打ち込むことができる人を挙げているが、これはヴェーバー自信が隣接領域に及んで業績を残していることを踏まえるとあまり説得的ではない(笑)ただ、その専心して情熱それ自体に仕え、以て成果=霊感を生む土壌とするという考え方は、この講演に通底する精神だろう。また、「体験」や「個性」に傾きがちな風潮を批判して、それは学問的な態度ではないと言及している。折しも時はソ連建国の5年前、社会主義が欧州で吹き荒れていた時代なので、ここには暗に社会主義的な世界観批判も含まれていただろうことは間違いないだろう(社会主義国家の意味重視、”学問”軽視の様は歴史の識ところでもあり、繋がっているなあと思った)。 さらに、学問の本質として「主知合理化」(つまり法則を定量的・客観的に見出すこと?)を挙げていて、そしてそれは「魔術からの脱却」であるとしている。(これを見るに、やはりヴェーバーは自身を「実験と観察」に始まる近代科学の延長線上に位置づけていいるらしいことが察せられた。)これは言ってみれば当時の学問のレベルからしてもかなり当たり前すぎる話をしていると思うのだが、むしろそれゆえにかなり本質の核に近い部分であるという迫力は感じた。 そののち、「学問はそれを職業とし、それに仕えるに足るか?」という問いから発し、学問の社会上の意味=価値について論じようとしている。ここで示されるのは、学問それ自体に社会的価値は存在せず、そこにいかなる価値も本質的に内在していないとする結論だ。学問に価値を見出すのは、つまるところは社会であり、それを構成する個人でしかない。だから、学問に価値があるのかという問いには意味がない、ということをトルストイを引用して力説している。 これは、「価値判断の下位に学問を位置づけるな」、あるいは「価値判断のために学問を援用するな」というメッセージであり、むしろ政治的なファクターから学問の領域を守る意図だろう。と同時に、やはり仮想敵としては社会主義的思想に見られがちな主意主義があるのだろうと邪推する。 また、職業として学問を行う者はこうした無意味・(意味を論ずることに意味がないという)無価値さに耐えつつもただ目の前の命題に対して情熱を注がねばならないとし、ここで再度それをすっ飛ばして体験に重きを置こうとする若者への批判が示される。ここでは「体験」が一神教の宗教に準えられ、そのような「想像上の専一的な帰依」は人々の判断を惑わせるものである、と舌鋒が鋭い。言っていることが一貫しているなあと思う。 この部分は現代に生きる自分にも耳がいたいところで、あえて陳腐な言い方をすれば、耳障りの良い「意味」や「価値」を安易に与えてこようとする言説には気を付けろ…、という話なのだろうと思う。解説の言葉を借りれば、それは「流行」とも言い換えられるかもしれない。落ち着いて、事実のみを見据える目が大事だ、という話は当然ながら今も昔も変わらないようだ…と、自分は読んだ。 それに続く、職業としての教師は決して(意味をあたえる)指導者ではないという話も面白い。何人かの教壇の主に聞かせたい話であることだ。 そして、講演の結論は、我々は「日々の要求」に応えるべきであるという話に収斂していく。上記のような話は学問に限った話ではなく、意味を求めるよりも目の前の日常、仕事、やるべきことに立ち返れという話をしている。そうして、主知合理化の精神のもと、魔術からの脱却を確たるものにすることが「時代の宿命」であるとしている。 このあたりにもヴェーバーの一貫した姿勢が見いだせるあたり心地よい。 学問において価値判断をするべきではない、学問はあくまで学問でしかない…、という主張も今日においてはひとつの価値判断になりつつあるが、だからこそ、今の次代にも響き得る名講演であると感じた。 また、これは蛇足だが、結局「日々の生活の中に全力を注ぐべきだ」という論調は吉本隆明の主張にもあったのを思い出した。日々を誠実に過ごすこと、そこに浮ついた感情を持たざること……なんというか、結論として落ち着く場所として収まりがいいのは確かだな……と感じた。皮肉ではなく。 学問の領域を、政治的、世界観的言説から明確に分離する意図を持ったこの講演の核こそ、たしかに語り継がれてほしいと思う。
科学の限界、宗教の限界この2つを明らかにすることによる、生き方の提案。 科学万能主義が蔓延る21世紀を生きる私たちだからこそ、改めて立ち止まって考えたい内容。
社会学の泰斗、その晩年の講演。 端的にまとめられた学問を取り巻く状況や今日的な意義、そして私たちのとるべき態度といった内容から、(本人は拒否するだろうが)学者でもあり、教師でもあり、指導者でもあったウェーバーの偉大さに感心するばかり。 世界が魔術から解放されたとき、再び神々があい争う時代に(神話...続きを読むは啓蒙であった、啓蒙は神話に退化する―アドルノ=ホルクハイマー)、安易な救いや啓示をもたらす救世主や預言者はいないし、それを無理やり地上に甦らせるわけにはいかないと説くウェーバー。 学問に従事する人々だけでなく、リキッドモダン(液状化した近代―ジグムント・バウマン)に生きる私たちすべてが、価値判断の脅迫から距離を置く態度を教えてくれている。 もうひとつの講演とあわせて、その時その場で、ウェーバー自身の肉声で聞きたかった。
職業としての学問は、 10年後、20年後、50年後には知識として古くなる。 つまり、常に進歩、前進することを前提にしていて、そうゆう宿命にある。 「われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない」 かつ、 価値があるというこ...続きを読むとを肯定することを前提として成り立っている。 法律等もそうであり、 法律自体が必要なのか? 学問自体が必要なのか? そういったことは、必要ということを前提としている為に、 その問いに対しては、 その基本的価値を証拠だてることはできない。 ここから読み取れることは、 物事の考えや発言には、 前提となるものがある。 その前提を汲み取ることができれば、 より本質を観る観点を持て、現状を打開できる。 このマックス・ウェーバーの思考の仕方、名付けて前提論とでもいおうか。 読書によって知識を得るということ以上に大切なことは、 思考のプロセスを追体験することで、 その著者の思考法を自身もできるようにすること。 なぜなら世紀を超えた一流人の思考を自身もできるようになるということは、 同じものの見方や視点を持てるということに他ならないからだ。 世界の見え方が変わり、益々世界は面白くなる。 それが読書の醍醐味だ。
主な論点・フレーズ: ①「大学に職を奉ずるものの生活は すべて僥倖の支配下にある」(才能の支配下ではない、ということ。使命は学者+教師という二重性に満ちている。適任者とコンクラーベ…) ②「心構え(専心の必要性)」(情熱なしになし得る全ては無価値である。情熱による「霊感」は学者にとって決定的。作業...続きを読むと情熱とによって思いつきを誘い出す) ③「学者の仕事はつねに"進歩"すべく運命づけられている」(学問上の"達成"は、つねに新しい"問題提出"を意味する) ④「知るに値するかどうかは、学問みずからが論証しうべき事柄ではない」(事実の確定と「べき論」は全く別だと認識せよ。教壇上から自らの政治的見解を押し付けるな。「気をつけろ、悪魔は年取っている、だから悪魔を理解するにはお前も年取っていなくてはならぬ」(ゲーテ)) ④に関してだけ一応反論を試みると、結局、 (1)教員がアカハラをせず(単位とかを盾にせず)、かつ、(2)学生側が一人一人の教員の見解を相対化できればよし、ということにはなるまいか?
職業倫理本の体をした自己啓発本な気がした笑 「いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、熱なしになしうるすべては、無価値だからである。」 「作業と情熱とが――そしてとくにこの両者が合体することによってーー思いつきをさそいだすのである。だが、思いつきはいわばその欲するときにあらわれる。それはわ...続きを読むれわれの意のままにはならない。」 「 とにかくそれは、人が机に向かって穿鑿や探究に余念ないようなときにではなく、むしろ人がそれを期待していないようなときに、突如としてあらわれるのである。とはいえ、こうした穿鑿や探究を怠っているときや、なにか熱中する問題をもっていないようなときにも、思いつきは出てこない。」
もっと早くに読めばよかった。それに尽きます。大学に入る前に読めばよかった。 ただ大学でそこそこ勉強に励んで卒業し、社会人なるものも経験した今読むと、「あの先生もこんな思いで教壇に立たれていたのかな」とか「人生のどこかでアカデミアにはもう一度戻りたいけれども、その時にこんな覚悟を改めて持っておきたい...続きを読むな」などなど思うこと多々で、これも感慨深かったです。
マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。 本書は、著者が死去する前年の1919年1月にミュンヘンで大学生向けに行われた講演(更にパンフ...続きを読むレットとして出版され、死去後『科学論論集』に収められた)の邦訳である。(姉妹編の『職業としての政治』もほぼ同じ時期のものである) 本書を読むにあたっては、本公演が、キリスト教の支配する世界、かつ、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)終戦直後の敗戦国ドイツ・ミュンヘンにおいて、人々の心が大戦後の動揺と既存の秩序に対する疑惑に満ちていた中で、感受性に富む青年たち(大学生)向けに行われたものであることを踏まえる必要がある。 本書でウェーバーが言わんとしたことは、大まかにいえば以下である。 ◆「学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうという事実である。・・・実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家になしとげられたものばかりである。」 ◆「学問のばあいでは、自分の仕事が・・・いつか時代遅れになるであろうことは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。」 ◆学問の意味は、「それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ」を知ることである。 ◆学問は、「われわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えない」。 ◆「政策は教師の側からいっても教室で取りあげられるべきものではない。・・・なぜなら、実践的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、全く別のことだからである。」、「こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、・・・講義者のなかに・・・教師ではなく指導者をもとめていることにあるのである。」 ◆「学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらす」のか? それは「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか」と「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」と「明確さ」である。 「純粋な学問(日々の仕事)に立ち返れ!」と若者を叱咤しつつ、その主張は、学問は「いかにあるか/存在(sein)」は明らかにできても「いかにあるべきか/当為(sollen)」は明らかにできない、という学問の限界を的確に指摘しており、「学問とは何か?」(というより「科学とは何か?」)を考えるにあたり、現代でも耳を傾けるべきものである。 (ウェーバーの文章は非常に複雑と言われるものの、1936年訳の本書はかなり読み難い。新訳の講談社学術文庫の方が読み易いかもしれない) (2018年12月了)
マックスウェーバーの講演。トレルチがキリスト教絶対主義の蓋を外し、宗教の多元性を明らかにすることによってひらけてきた新しい価値観。その影響を大いに感じさせる理性と実存を峻別させるような一冊。教師と指導者は別であると。信仰や実存的生は学問の延長にあるものではないときっぱり言い切るところは気持ちいい。 ...続きを読む 17.12.22
以前読んだものが意訳(現代意訳?)が激しいものだったので、機会もありこっちの方を。 旧訳序文でも述べられているように、言ってることは情勢・学問への姿勢・教えることへの姿勢に分けられる。 個人的には、終盤に何かもうひとつ主張しているような気がするけどその辺は何を言っているのか(具体例を述べてただけなの...続きを読むか)また読み込む必要がありそう。 情勢や学問への姿勢はまぁそれでよいとして、教えることへの姿勢に関してはちょい思うところあり。 そもそもここでは教える側の絶対性のような何かが前提になっている気がする(そしてそれは確かに多くの場合において正しいとは思う)けど、教わる側は教師に対して批判的であることが可能(批判的であるべき?)なのではないかという部分をもうちょい掘り下げて考えてみたいところである。
レビューをもっと見る
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
新刊やセール情報をお知らせします。
職業としての学問
新刊情報をお知らせします。
マックス・ウェーバー
尾高邦雄
フォロー機能について
「岩波文庫」の最新刊一覧へ
「社会・政治」無料一覧へ
「社会・政治」ランキングの一覧へ
仕事としての学問 仕事としての政治
経済と社会:音楽社会学
古ゲルマンの社会組織(歴史学叢書)
支配されるか、支配するか マックス・ウェーバーの「経済と社会」より
支配について Ⅰ 官僚制・家産制・封建制
試し読み
経済と社会:支配の社会学1
経済と社会:支配の社会学2
経済と社会:支配の諸類型
作者のこれもおすすめ一覧へ
▲職業としての学問 ページトップヘ