高架線を走るJR阪和線で天王寺に向かう電車の窓からは、「笑顔と音楽あふれる大空小」と体育館の窓に1文字ずつ貼られているのが見える。ある人にとっては何か貼ってあるなくらいの感想かもしれないけど、ある人からすれば「ああ、ここが『みんなの学校』の舞台なのか」と映画の各シーンが思い浮かぶだろう。
しかし大空小のある大阪市住吉区をはじめ、近辺の東住吉区、阿倍野区などの一帯は元々小学校教育に熱心だというのは大阪市に住む者ならばよく聞く話だ。とは言ってもこのあたりの公立小学校で何か特別な教育がされているとか、優秀な先生が集まっているとか、そんな話ではない。この近辺の特徴は“地域が小学校教育に熱心”。これにつきる。その地域の力に、木村さんの力や他の教職員の力が合わさった結果。
いや、その言い方は厳密には正しくない。いい学校をつくっているのは、あくまで子どもたち。子どもたちの力に地域や大人の力がうまく合わさった学校について、木村さんは「みんなの学校」という用語を使っている。
この本は、大空小の元校長で映画でもたくさん映っていた木村泰子さんと尾木直樹さんが、その当時小中学校で導入目前だった「道徳の教科化」をテーマに対談したもの。
でも道徳の教科化の議論を出発点に、その枠を超えて、木村さんの体験に立脚した教育についての考え方が随所に出てくるのはうれしい限り。
そして木村さんが、自身の長い教員生活で失敗を重ね「先生が子どもを教える」から「子どもから教えられる」へ発想を180度ひっくり返したことで教育の本来的な姿を見い出したというのが随所から読み取れたのもよかった。
「いま全国の教育現場で問題の根源になっていると思っているのは、学校が『見せるもの』になっていることです。『うちの学校、良い学校でしょ?』と、自分たちの学校を良く見せることが目的になってしまうと、子どもたちはそのための手段になります。そうなれば、邪魔な子は排除しようとする原理がどうしても働いてしまいます。ところが『見せる学校』を断捨離すれば、一人ひとりの子どもが見えてくるようになります。」(P10)→①
「『学校があるから学校に行く』。これは従前の考え方です。…そして、学校はそこにあるものではなくて、つくるものです。では誰がつくるのか。『みんながつくる みんなの学校』を合言葉に『自分』がつくるのです。学びの主体である子どもが、自分が学ぶ学校をみずからつくる。保護者が、自分の子どもが学ぶ学校をみずからつくる。地域住民が、地域の宝が学ぶ学校をみずからつくる。教職員が、自分が働く学校をみずからつくる。みんなという言葉は一人ひとりの『自分』がそこに存在していることで成り立ちます。だから人任せなんてしません。」(P14)→②
「全国のみなさんとお会いして『みんなの学校』を紹介していると『あんな校長だからできる』とか『いい先生やいい地域の人がいるからできる』というように、自分にはできないと思い込んでしまい、『いいとは思うけど、うちは無理』とあきらめの声をよく耳にします。でも本当に必要であれば『みんなの学校』はつくれます。それにはまず、一人ひとりが大人としてどういう社会をこれからつくればいいのかを改めて問い返す必要があります。もちろん正解などどこにもありません。」(P44)→③
なお、偶然朝日新聞の読書欄を読んでいたら②と符合すると思われる本田由紀さんの書評に行き当たったので、あげておきたい(2019.9.21 朝日新聞朝刊)。
「『みんなの教育 スウェーデンの「人を育てる」国家戦略』第4章が伝えるように、学校のすべての授業が民主的方法で行われ、生徒たちが社会の土台となる権利と影響を行使するとともにその責任を取る力を育めるようにすることが理想である。…「日本ではありえない!」と肩をすくめるのではなく、不合理な細かすぎる指導や校則が蔓延している日本の学校のほうが異常ではないかと考えて見るべきだ」
また道徳の教科化についても、学校の在り方自体が③のように正解がない中での暗中模索である以上、道徳も「こうすべき」というような“正解を子どもに教える”ような現行の指導方針は危うさを多分に含んでいることが読み取れた。
そして、木村さんについては、間違っても“カリスマ”とか“プロフェッショナル”とか言って祭り上げようとせず、そっとしてあげてほしい。そもそも木村さんを引き込もうとすること自体が①②③と矛盾するから。