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岡本隆司(オカモト タカシ)
京都府立大学教授。1965年、京都市生まれ。現在、京都府立大学教授。京都大学大学院文学研究科東洋史学博士後期課程満期退学。博士(文学)。宮崎大学助教授を経て、現職。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会・大平正芳記念賞受賞)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会・サントリー学芸賞受賞)、『世界のなかの日清韓関係史』(講談社選書メチエ)、『李鴻章』『袁世凱』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会・樫山純三賞、アジア太平洋賞受賞)、『清朝の興亡...続きを読む と中華のゆくえ』(講談社)、『世界史序説』(ちくま新書)、『近代日本の中国観』(講談社選書メチエ)、『増補 中国「反日」の源流』(ちくま学芸文庫)など多数。
当然ながら、海岸線に近いところでは湿気が多いため、湿潤気候になります。逆にいえば、水から遠い内陸地方は乾燥気候になる。これがごく簡単な気候・地域の区分の大前提です。そして前述のとおり、環境が違えば、そこに生きる人々の暮らし方も違ってきます。
具体的に一瞥を加えておきましょう。ステップの草原地帯はおおよそ、北緯四五度から五〇度にかけて東西に長く延びています。東は大興安嶺山脈の東麓あたりにはじまって、モンゴル高原を経て、中央アジアのジュンガル盆地やカザフ草原、さらに西方の南ロシア草原から東ヨーロッパのハンガリー平原までの広がりがあります。そこでは草本植物がそれなりに繁茂していて、牧畜に適した自然環境をなしています。 そういう地域では動物も生きていけるので、人間としては、その動物を家畜化して牧畜を行うという暮らし方が可能になります。その動物から生み出される乳製品や肉に頼って生活を送るわけです。
ただし、乾燥地域の草原は一定の季節、一定の地域しか、植物が育たないことがほとんどです。そのように物資の乏しい条件下で牧畜を継続するには、必然的に草原から草原へと移動を繰り返す、不安定な生活にならざるを得ません。それを表現した言葉が「遊牧」で、ここでいう「遊」とは一つの場所に留まらないことを意味します。人間の生存には、とても厳しい条件です。 農耕民と遊牧民の違いは、服装をみれば、一目瞭然です。形状も違いますし、そもそも原材料が異なります。農耕民の服は植物の繊維から作られました。それに対して遊牧民の服は、動物の皮革が元になっています。
農耕民と遊牧民の違いは、服装をみれば、一目瞭然です。形状も違いますし、そもそも原材料が異なります。農耕民の服は植物の繊維から作られました。それに対して遊牧民の服は、動物の皮革が元になっています。 もちろん違うのは衣食ばかりではありません。風習・習俗そのものからして、大きく異なっていました。
たとえば遊牧民は、老人より若者を尊び、敬老の精神がありません。また父兄が死ぬと、その妻を子弟が娶りますから、いわば「略奪婚」同然です。農耕民たるわれわれ日本人の感覚では、考えられないようなことばかりです。
以下は、司馬遷『史記』の「匈奴列伝」に出てくるエピソードです。『史記』はご存じのように、紀元前一世紀・漢王朝の時代にできた中国初の体系的な歴史書で、匈奴は当時最大の遊牧国家でした。漢と匈奴は当時の東アジアを二分したライバル国家同士です。
ただし、それぞれの地域で人々が暮らしていたとしても、それだけで歴史が生まれるわけではありません。たとえば、同図に描かれてすらいないアメリカ大陸にも、すでに住む人々はいたはずですが、世界史にはいっさい登場しません。歴史とは、人々の生態がわかる記録と常にワンセットで生まれるものだからです。しかもそれは、後々に続くプロセスまで見通せることが条件です。
そのため、まず自然と言語が発達します。また紛争解決の手段として、記録を残そうという話にもなるでしょう。昨今のクルマならドライブレコーダーを設置することができますが、当時は画像も映像も残せないので、文字として残すしかありません。こうした積み重ねによって、遊牧世界と農耕世界との境界地域を中心に、文字記録ひいては「古代文明」が発達していったと考えられます。
言い換えるなら、中国史は、ユーラシア各地に共通する「古代文明」発展プロセスの東ブロックとして始まったわけです。それぞれの文明は、まったく単独で栄えたわけではないでしょう。どこかで発明されたものが、シルクロードを通って各地へ伝播し、発展に寄与したと考えるほうが自然です。
そもそも「中国」や「中華」とは、中央・中心・真ん中という意味です。つまりは「センター」であって、アイドルグループよろしく一番偉い、ということですが、この国を「中国」という名称・固有名詞で呼ぶようになったのは、二〇世紀に入ってからです。それまで、英語のChinaを意味する漢語は、その時々の政権名だったのです。
つまり都市にしろ文字にしろ、東アジアでは中国を中心に、共通の文明を発展させていったわけです。それは遠く隔たる地方の人々の暮らし方や慣習、文化にも及びました。そこで中国は、自分たちが周囲とは違う、突出した中心であるという観念を発達させていきます。そういう文化・文明の中心である黄河流域を「華」「中華」「中原」「中国」と呼び、その中で分立する邑や国の支配層を「諸侯」と呼びます。「中原」も「中国」も中心地というくらいの意味の漢語です。
その名称から、とかく日本人は中国が当時の世界の流通センターだったようなイメージを抱きがちですが、それは違います。中国はあくまでも当時の流通路の最東端だった、またシルクしか持ち出すものがなかったと考えたほうがいいでしょう。
ちなみにこのあたりの政権は、以後の南朝もそうですが、中国で初めて日本の交渉相手になった国でもあります。「呉」は日本語で「くれ」とも読みますが、それは呉が日本から見て日が暮れる西方にあるという意味でもあります。また「呉服」は、もともと中国から来た服という意味でした。
実際、古代文明が栄えたのも、農耕ができる乾燥地域でした。あるいは日本でも、まず奈良や京都のような高地が都になっています。それだけ生産性が高く、多くの人口を養えたということでしょう。
ちなみに、このような塩の徴税・専売の制度を「塩政」といいますが、何も宋に始まった話ではありません。古くは漢王朝の時代から、塩とともに生活必需品である鉄にも、税金をかけていて、その是非を問う「塩鉄論」というような記録も存在します。それが制度化したのは、唐の後半期のことで、令外の官として「塩鉄転運使」という官職を設けて、その徴収に当たらせていました。
「五代十国」の時代、揚州を首都にして主要な塩の産地をかかえていた呉と、そのあとを継いだ南唐が、この塩政のシステムを大いに利用します。両国がきわめて豊かだったのは、そのためです。宋はむしろ南唐のシステムを踏襲したわけですが、こうして財政本位で商業を興し貨幣を流通させた結果、貨幣経済・商業化が民間にもひろがっていくようになったのです。 塩の専売はすぐれて権力と密接な関わりにありますが、ほかの商業も多かれ少なかれ、課税の対象になっていて、これを「商税」といいます。専売とあわせて「課利」という表現もあります。この課利と土地税が、政府税収の二本柱となりました。
クビライが紙幣の兌換として準備したのは、銀・貴金属だけではありません。少量で価値のあるものとして、そこに塩も加えたのです。 これも前章で述べたとおり、中国では唐や宋の時代から塩を国家の専売にしていました。一部の商人しか扱えないことにした上で、原価の何十倍または何百倍もの税金をかけたのです。特権を得た商人は多額の税金を納めるのと引き換えに、生活必需品の塩の取引を一手に引き受けて、莫大な利益を得るようになります。クビライはこの塩政制度を踏襲し、さらに活用しました。
そしてもう一つ、国家として「中国」を名乗るのも、このころからです。これまでは、王朝名しかありませんでした。しかし清朝にアイデンティティを見出せず、むしろそのやり方に不満を持つ多くの官僚や知識人にとって、「清国人」とか「清人」と呼ばれることには違和感がある。そこで国名が必要だと考えるようになったのです。
では、どう名乗るのか。当時もいまも、欧米は中国をChinaと呼んでいます。そこに漢字を当てはめて「支那」。これは古来の仏典にある漢語で、当時の日本人も普通に使っていました。これに倣って、中国の人士も自分たちは「支那人」であるといいはじめたのです。今日では蔑称のようなイメージがついてしまいましたが、当時はこれが最先端の呼称でした。
しかし、「China=支那」はあくまでも外来語です。日本人が「ジャパン人」とは名乗らないように、やがてかれらも自らの言葉で自称しようと考えます。それが「中国」です。もともと「中国」という言葉は、「中心の国」を意味する一般名詞として存在しました。自尊を込めて、それを固有名詞に変えたわけです。 もともと「因俗而治」、在地在来の体制を尊重し、むしろバラバラの状態で発足した清朝ですが、こうして末期になってようやく、国民国家として均質一体になろうという気運が高まりました。概念や国名にそれがよく表れています。しかしながら、その実質的な統合作業は、二〇世紀に持ち越されることになったのです。
中国にとって二〇世紀は、革命の時代でした。 まず一九一一年には、辛亥革命が起きています。図表8‐1の旗印は、清朝の中央政府から離脱した地方の省政府を表しています。とくに南方に集中していることがわかると思います。
国民政府は国外に日本、国内に中国共産党という敵を抱えていたわけですが、蔣介石としては、日本より先に共産党を潰すことを画策します。まず国内を一元化して、日本と戦う態勢を整えようと考えたわけです。実際に共産党に打撃を与えて、陝西省の山あいにまで追い詰めました。しかし国民政府の東北軍のリーダーだった張学良に強引に説得されて、共産党と和解します。これを西安事件といい、やがて共産党と共闘して日本に対峙することになります。これによって日中の全面戦争に至ります。
そのあげくに行き着いた先が、一九六六年から約十年にわたって繰り広げられた文化大革命です。下層の人々を持ち上げ、上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わりました。 その反動のように打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線です。共産主義のイデオロギーと支配体制は残したまま、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して豊かさを追求しようとしたわけです。その姿は、中華理念と皇帝専制を残したまま、明朝の対外秩序を転換させた清朝と重なります。
ちなみに日本は、地域構造も社会構造も歴史的にみれば、非常に単一的均質的です。だから西洋近代に直面した際、国民国家の形成も容易でした。そういう日本人の感覚からみると、中国社会は想像を絶するほど複雑怪奇なのです。 日本の中だけをみていれば、日本は多様だといえるかもしれません。日本史の研究では、そういう議論もさかんです。しかし中国に比べれば物の数ではありません。
清朝は辛亥革命によって倒れ、中華民国が誕生します。英米と深く関わっていました。また第二次大戦後には、毛沢東が率いる中国共産党が中華人民共和国を樹立します。こちらはソ連・共産主義とコミットしていますから、ベクトルはまったく逆のようにも思えますが、実は「国民国家をつくる」という目標を掲げた点では共通しています。
あくまでも国民国家をつくって、西洋や日本に対抗するための取り組みが中国の「革命」であったわけです。 ところがその「革命」・国民国家形成というイデオロギーと、歴史的に多元性をきわめてきた現実の間には、容易に埋められない深いギャップがあります。だから、埋まるまで永遠に「革命」を続けなければいけない。それが、今日の中国の姿でしょう。
たとえば中国政府は、かねてより「一つの中国」というスローガンを政策的立場として掲げています。国是といっていいかと思いますが、中国大陸のみならず、台湾も香港もマカオもすべて統一国家中国の支配下にある、というわけです。 しかし、これほど欺瞞に満ちた言葉はないでしょう。現実として中国は複数の民族問題、国境問題も抱えています。
この制度は今の中国の問題であると同時に、多元的で地域ごとに習俗・慣行がまったく違うため、統治の仕方も違っていたという中国の歴史を反映しています。しかもその境界線も曖昧なことが、統治をいっそう複雑にさせています。歴史的な多元性を国民国家というパッケージで一つにまとめることができるのか。「革命」が始動してから今なお抱え続けている中国の大きな課題なのです。 当然ながら、台湾も「一国二制度」には注意を払い、警戒しています。大陸が敵視し、経済の低迷を招いている現在の蔡英文政権を生み出した原動力でもあります。
言い換えるなら、アジア史において政教分離は成立しにくいということです。多元性の強い社会で安定した体制を存続させるには、宗教のような普遍性を有するものがどうしても欠かせません。複数の普遍性を重層させねばならない場合は、なおさらです。ヨーロッパで政教分離が成立したのは、そもそも社会も信仰も単一均質構造でまとまっていたからです。分離しても社会が解体、分裂しない確信が、その背後に厳存しています。仮にアジアで政教分離を実施したら、たちまち体制や秩序はバラバラになって混乱をもたらしてしまったでしょう。
そして現代は、欧米スタンダードの時代です。意識するとしないとにかかわらず、あらゆる物事は欧米の基準でできあがっていますし、それをわれわれは、やはりあたりまえだと思っています。 歴史の見方も同じです。そもそも「歴史学」という学問が西洋発祥であり、いわゆる西洋中心史観に則っています。それは西洋史の専門家にかぎらず、たとえば日本史やアジア史の専門家の中にも、そういう見方をする人が少なくありません。
つまりリアルな中国を知るには、西洋化したわれわれ日本人の既成概念をいったん削ぎ落としたうえで、中国のリアルな歴史の積み重ねと向き合う必要があります。それができれば、中国人の発想や言動も、もう少し理解しやすくなるはずです。 西洋とその史観しか知らなければ、偏った見方になって、世界を見誤りかねません。中国や中国人に対する違和感・偏見も、そこに由来するのではないでしょうか。 世界には、日欧とは違う歴史があると知ることが、われわれ自身の歴史観を見つめなおし、既成概念を反省し、打破する機会になればいいと思っています。中国史を学ぶことは、その有効な題材なのです。
われわれはとかく、「中国」というものが古来一貫して存在したように思いがちである。しかし目前の現代は、長い歴史の一コマであり、いま「中国」と呼ぶ対象も、あくまで世界史の一部として、たえず変化してきた。あたりまえのことである。それでもつい中国・東アジアの歴史を世界と切り離して考えてしまう、そんな知的習癖を自他ともに改めていきたい。「つなげて学ぶ」という小著のタイトルは、編集担当のみなさんにお任せしたものながら、そんな筆者の思いを端的に代辯してくれる。