作品一覧
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4.0「外なる世界と内なる心、という分別は誤りだと思う」 見たり聞いたりする知覚の風景が自分の「心の中」にある心象風景だと感じる人はまずいないだろう。しかし、痛みや気分、悲喜の感情、思い出や希望、空想や妄想、そして意志といわれるもの、これらはまぎれもなく自分の「心の中」のものだ、と人は感じている。 しかしそれは、人が抱く根本的な事実誤認ではないか? 世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく、回想や希望も現在も、常にひとしく四次元の全宇宙世界の立ち現われなのである。 このことを、光学虚像や幻覚・幻像、時間と空間、幾何学、芸術、自由と意志などさまざまな角度からていねいに論じる。陥りがちな誤解をほぐしながら、日常と科学を重ねながら、「世界の一項目としての私」を「世界のあり方としての私」に組み変える。 世界そのものが、悲しく喜ばしく恐ろしい。 こうして「私」は抹殺され、私が復元されたのである。 解説: 野家啓一 本書の原本は『新視覚新論』(東京大学出版会、1982年)です。 【目次】 1 見ることと触れること 2 見えている 3 何が見えるのか 4 「表象」の空転 5 鏡像論 6 過去透視と脳透視 7 空間の時間性 8 自由と「重ね描き」 9 言い現わし、立ち現われ 10 心
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3.0
ユーザーレビュー
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Posted by ブクログ
大森荘蔵さんのさんの本は以前読んだときあんまり面白くなかったのだが、これは違う。断然違う。超一級のおもしろさを持つ哲学書だ。
もとは別々の論文であったものを、著者自身がうまくまとめ直して一冊の書物にしている。とはいえ、後半の方とか、トピックは様々だ。
私が非常に興奮させられ、感銘を受けたのは第1部「物と心」である。この部分は難解さも心地よく、常識的な見方を覆すような、それでいてケレン味の無い緻密な論述に心奪われる。
大森は「感情、情念、気分といったものはわれわれを含めた世界の状況の中にあるのであって、その世界から分離された、しかもべったり世界にまといつく「心」にあるのではない。」(P120)と -
Posted by ブクログ
冒頭で「語の意味とは何か」という問いがある通り、この本はその問いに対応する形で書かれている。また、著者はそれを示すと同時に、哲学することについて読者に示す。以下は私の理解である。
本書で繰り返し語られることに、「言葉を整備する」ことがあげられると思う。そして言葉を整備することが、語の意味とは何かを示し、哲学することなのだ。では語の意味とは何か。
語の意味とは、誰かによって与えられているものである。誰かとは、発話者のことである。そして、語の意味は厳密に示されるものではない。よって単語帳に載っている意味は、その語が蓋然的に示す意味であると考えられる。著者は、家族的類似性という概念を用いて語の -
Posted by ブクログ
初期『論考』の「世界ー言語並行論」に基づく意味論的発想を離れ、中期の「文法」すなわち規則を重視する立場から後期『探求』の「言語ゲーム」への移行期における、ウィトゲンシュタイン(LW)の講義の口述録。ここではすでに「言語ゲーム」という言葉は表れているが、あくまで中期LWの特色である「文法」「ルール」に重きを置いた考察がなされており、後期のようにそこに我々の生活があって初めて実質が与えられる、という立場は取られていない。野矢茂樹氏の解説によれば、あくまで「文法」内での語の使用のされ方に焦点を当て「あてがわれるべきものと異なる文法を適用してしまうことにより生ずる我々の誤謬を治癒しよう」というのがこ
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Posted by ブクログ
1982(昭和57)年著。
以前読んだ大森荘蔵さんの著作は結構面白く読めて共感する部分も多かったのだが、本書の前半、「視覚」現象を巡って常識を覆すような論が展開される部分は、どうも首肯できずに苦しかった。文章は哲学書としては恐ろしく平易・明解な方で、言っていることは理解できるのだが、どうしても「いや、どうかな、違うんじゃないかな」と疑わしい気持ちになるのだった。
しかし本書後半、「視覚」を離れて心的現象全般について哲学的洞察が繰り広げられ始めると、これはなかなか面白く、かつ、同意できそうな点も多くなった。「立ちあらわれ」という独特のキーワードを軸に、「自分」と周囲の風景や事物との関わりを