プロジェクトXシリーズ作品一覧

  • プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく  霞が関ビル 超高層への果てなき闘い地震列島 日本の革命技術
    5.0
    地上36階、高さ147メートル。昭和43年に完成した「霞が関ビル」は、日本初の超高層ビルである。  それまでは、関東大震災後に作られた建築基準法により、ビルの高さは31メートルに制限されていた。地震と台風の国・日本では、高いビルの建設は不可能とされていた。   建設のリーダーは、鹿島建設の二階盛(50)。自ら関東大震災を経験し、多くの友人を亡くした二階は、日本初の難工事に果 敢に挑んだ。二階は、「初めての試みには、新たな発想が必要」と、35歳以下の技術者しか加えなかった。後に“二階学校”と呼ばれる150名のプロジェクトの誕生だった。  地震に強い柔構造ビルのヒントは、関東大震災でもビクともしなかった寛永寺の五重塔にあった。一本の柱で支えられている五重塔は揺れに強い。147メートルに達する柱をいかにまっすぐに立てるか。これが霞が関ビル建設の鍵だった。  しかし、肝心の鉄骨は、建設中に、すぐに微妙に曲がってしまった。計り直して修正しても、翌日にはまた曲がった。  一体なぜなのか?その原因が全く分からず、担当の角田勝馬(19)は、焦りを募らす。早く解決しなければ、台風シーズンを迎え、工期に間に合わなない。二階と若手技術者は、この危機をどう乗り越え、完成に導いていったのか・・・。  二階学校での技術者の奮闘を軸に、日本初の摩天楼が完成するまでの1000日の熱いドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく  腕と度胸のトラック便翌日宅配・物流革命が始まった
    3.0
    昭和51年に誕生した宅急便。「電話一本で翌日配達」を売り物にドア・トゥ・ドアで荷物を届ける画期的なシステムである。戦後最大のサービス革命と言われ、日本人の暮らしを一変させた。  宅急便を始めたのは、深刻な経営危機に直面していたヤマト運輸。二代目社長・小倉昌男(50)が社運を賭けて決断した。成功の鍵は全国津々浦々に拠点を作るネットワークだった。  コストがかかる個人相手の輸送はリスクが高く不可能というのが業界の常識だった。しかし、長年の取引先から撤退して宅急便に賭ける小倉の気迫にドライバー達は奮い立つ。  最も営業が難しいと見られた北海道を任されたのは、トラック運転手・加藤房男(27)。広大な北海道で、どうしたら不特定多数の家庭から効率よく荷物を集められるのか。行き詰まる加藤を支えたのは、自分の町にも来て欲しいという住民達の声だった。「待っている人達がいる限り絶対に諦めない」。加藤は全道に営業所の「のぼり」を立てることを夢見て奔走する。  更に、国が立ちはだかった。運輸省は、それまでの常識を次々と覆すヤマト運輸に対し、免許を認めなかった。  ヤマトは運輸省を相手にどう闘いぬくのか? 戦後から続いた規制行政にいかに風穴を開けるのか? 北海道全域にのぼりを立てるという加藤の夢は叶うのか・・・?   物流を劇的に変える新サービス・宅急便を全国に普及させた男達の15年のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく  炎上  男たちは飛び込んだ ホテルニュージャパン
    -
    昭和57年2月8日。日本災害史上例を見ない火災事故が発生した。 地上10階、東京でも有数の巨大ホテル、ホテルニュージャパンの火災である。 1昼夜に渡って燃え続け、犠牲者33人を出す大惨事となった。この時、炎に包まれ、絶望的と言われた高層階から、66人もの人命が奇跡的に救出されたことは知られていない。命がけの消火、救出の中心となったのは、東京消防庁の精鋭部隊、「特別 救助隊」の男たちだった。 ホテルは欠陥建築で、火のまわりが異常に速かった。男たちの救出作戦も困難を極めた。 隊長、高野甲子雄はある決断を迫られる。 番組は、消防の世界で今も語り継がれる、伝説の消防士たちの救出劇を克明に描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく  男たちのH-IIロケット 天空へ
    5.0
    日本が誇る純国産ロケット、H-II。 それは、日本の先端技術の粋を尽くした、技術者たちの意地の結晶だった。 昭和30年代の開発黎明期から、平成6年のH-IIロケット打ち上げ成功まで、40年にわたる男たちの熱き戦いを、2週に渡って、放送する。  「ロケット開発の父」と言われる東大教授糸川英夫が、日本初のロケット発射実験を 行ったは、昭和30年。使われたロケット「ペンシルロケット」は、大きさ23センチの小さなものだったが、その影響は計り知れなかった。この実験を知り、多くの若者がロケット開発を志していく。  しかし、その後のロケット開発は苦難の連続だった。計画は難航し、ついにアメリ カの技術を導入することを余儀なくされる。技術の一部は、日本の技術者は全く見ることのできない「ブラックボックス」になっていた。  国産ロケット計画実現に向けての技術者たちの執念の戦いを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく  史上最大の集金作戦 広島カープ市民とナインの熱い日々
    3.0
    広島カープ。県や市が出資する日本で唯一の“市民球団”として、昭和25年に誕生した。原爆で深い傷を受けた広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。  初代監督を引き受けたのは、石本秀一(52)。広島商業を3度の全国制覇に導き、その後タイガースの監督も務めた、野球の鬼だった。両親と兄弟を原爆で失った石本は、故郷復興へに役立ちたいと、広島に駆けつけた。  しかし大企業の後ろ盾がない球団は深刻な資金不足だった。有名選手を集められなかった。石本は、高卒の新人や、喫茶店のマスターをしていた元プロ野球選手までかき集めた。合宿所の窓は閉まらず、雨が吹き込んだ。遠征の時は3等列車の床で寝た。シーズンが終了してみれば圧倒的な最下位 だった。  そして、結成翌年の3月、資金難から、カープの解散が発表された。石本と選手たちは唖然とした。  その時、立ち上がったのが広島の市民たちだった。路面電車の運転手、坂田政利(23)は私設応援団を結成。球場の前で一人一人に募金を呼びかけた。  「復興への希望の灯を消すな!」。それを合い言葉に、全市民を巻き込んだ募金作戦が展開されていく。それは想像を超えた壮絶なものとなっていった・・・。 “市民球団”広島カープが、存続の危機を乗り越えていく感動のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく  日本初のマイカー てんとう虫 町をゆく家族たちの自動車革命
    2.5
    日本人の自動車に対する意識を根底から覆した革命的な車がある。スバル360。  昭和30年代、一軒家と同じほど高価だった「自動車」をサラリーマンでも買えるほど安価にし、「マイカー」という言葉を誕生させた画期的な車である。わずか360ccながら4人乗り。高級外車にも負けない驚異的な走りとサスペンションを誇り、その風貌から「てんとう虫」と呼ばれた。  スバル360を生み出したのは、戦後、細々とバスを作っていた富士重工業の技術者たち。戦時中は、戦闘機を手掛けるほどの腕を持ちながら、戦後、くすぶっていた男達である。 安くても高性能の車を作るために要求されたのは、極限の軽量 化と、軽くて柔らかいサスペンションの開発である。次々と立ちはだかる壁を前に、技術者たちを奮い立たせたのは、家族への想いだった。  自動車を金持ちの道具から、自分達の家族でも乗れる「庶民の足」にしたい。技術者たちの執念が、不可能といわれた4人乗り軽自動車を世に送り出す。  革新的な車作りに打ち込んだ男達と家族の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 液晶 執念の対決瀬戸際のリーダー・大勝負
    -
    携帯電話、モバイルコンピューター。急速に進行するIT革命になくてはならない装置がある。省エネルギーで、軽量 。夢のディスプレイ装置「液晶」である。  世界で初めて、「液晶」の実用化に成功したのは、シャープの研究所で、日の当たらない場所にいた技術者たち。  リーダーの和田富夫はかつて、壁掛けテレビの開発にたずさわり、挫折。管理部門に回されていた。偶然、テレビで実験段階の液晶を見た和田は上司に開発を進言。しかし、プロジェクトに集まったのは、同じように開発に失敗した技術者と何も知らない新入社員たちだった。  和田は、メンバーを鼓舞し、アメリカの大手企業も実用化をあきらめた「液晶表示装置」の開発に打ち込む。そして、1万回を超える執念の実験の末に、電卓の表示装置として、世界で初めて「液晶ディスプレイ」の実用化に成功する。  番組は、サラリーマン人生をかけて開発に打ち込んだ技術者たちの執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 大地の子 日本へ中国残留孤児・35年目の再会劇
    -
    日本と中国、かつて戦火を交えた両国が、国境を超えて協力しあった壮大なプロジェクトがある。戦争の悲劇の象徴と言われた『中国残留孤児』の身元捜しのプロジェクトである。史上例のない、日中協力の一大プロジェクトのドラマ。  昭和48年3月。壮大なプロジェクトの発端となる会が生まれた。『日中友好手をつなぐ会』。それは、一人の男の執念が生み出したものだった。長野県阿智村で寺を営む住職、山本慈昭、73歳。昭和20年5月、最後の満蒙開拓団の教員として、満州に赴いた男である。敗戦の混乱の中、山本はシベリアに抑留、妻と二人の娘は、極寒の満州で亡くなった。330人の開拓団のうち、生きて日本に帰ったのは、わずか42人だった。昭和44年夏、山本は驚くべき事実を知る。中国で死んだと聞かされていた娘の啓江は、中国人に預けてきた、生きているかもしれないというのである。山本は、一人、中国に残された娘を捜し始めた。  孤軍奮闘する山本の周りには、同じ思いの32人が集まった。『日中友好手をつなぐ会』の誕生だった。しかし、時の中国は文化大革命の真っ只中。孤児たちと自由に連絡を取り合うことも出来なかった。しかし、会のメンバーたちは、執念で孤児捜しへの闘いを続けていく。そして、その執念は、最後、感動の奇跡を呼び込むことになった。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 耳を澄ませ 赤ちゃんの声伝説のパルモア病院誕生
    -
    現在、世界一低い新生児死亡率を誇る日本。世界で最も安全に出産できる国である。  しかし僅か40年ほど前まで、出産は、赤ん坊にとって人生最大の危機だった。  産婦人科医は母胎に関する知識しかなかった。小児科医は生後一ヶ月以降の赤ん坊しか診られなかった。生まれた直後の新生児専門の医者はいなかった。そのため、30人に1人が出産時に死亡した。生まれ出ても、難産の影響で、脳性麻痺などの身体障害になる者も多かった。  「子供の危機を救いたい」。立ち上がったのが、京都府立医科大学教授の小児科医・三宅廉だった。  三宅はまず、出産に立ち会わせてほしいと訴えたが、産婦人科の領域と断られた。縦割り医療の限界を感じた三宅は、47歳で大学を辞職。昭和31年、ひとりの若い産婦人科医、椿四方介を引き連れて、神戸市内に小さな診療所、パルモア病院を設立した。  しかし日本初の新生児医療は困難の連続だった。どれくらいの量の薬を与えて良いのか。どんな注射をすればいいのか。刺激の少ない人工呼吸の方法は・・・。分からないことだらけだった。更に、苦悩するパルモア病院を経営危機が襲う。名もない小さな病院で出産する患者は少なかった。3週間全く出産がないこともあった。  三宅たちは、次々と襲いかかる困難な壁を、どのように乗り越えていくのか・・・。  これは、小さな命を守ろうと奮闘し、日本の医療界に革命を起こした医師たちの感動のドラマである。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 エベレストへ 熱き一四〇〇日日本女子登山隊の闘い
    5.0
    標高8848M、世界最高峰エベレスト。昭和50年5月16日、女性だけの登山隊がエベレスト登頂に成功した。世界初の快挙を成し遂げたのは、主婦やOL、教師など15人の日本人女性チームだった。 登山隊のメンバーたちがエベレストに夢を抱き始めたのは昭和45年。植村直己がエベレスト登頂に成功した年だった。 しかし女性だけの海外遠征に社会の目は厳しかった。「女性だけでは絶対に無理」「主婦は家庭を守るべき」と言われ続けた。組織作りから資金集めに至るまで、3年に及ぶ準備期間は苦難の連続だった。 更にエベレストでは過酷な自然が待っていた。厳しい寒さ。高山病。突然の雪崩。命の危険に脅かされながらも、女性たちは夢を諦めず登山続行を決断する。メンバーの情熱を支えていたのは、故郷で成功を祈る家族や仲間達の存在だった。 家庭や仕事を抱え、母として女性として様々な問題に直面しながらも、自分たちの夢を叶えようとしたエベレスト隊の1400日のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 女たちの10年戦争「男女雇用機会均等法」誕生
    -
    就職、昇進、定年など職場における男女の平等を謳った日本初の法律「男女雇用機会均等法」。法律を作り上げたのは、自らも仕事と家庭の両立に苦しんでいた労働省の女性官僚たちだった。リーダー、婦人少年局長・赤松良子の情熱の原点は、専業主婦として一生を終えた母の姿だった。「自分も仕事をしたかった」とつぶやく母の言葉が心に深く刻まれていた。法案作りは、経営者団体と労働団体の意見が真っ向から対立し、「審議会」の段階で膠着した。女性の社会進出に対し保守的な経営者側は「法律を作るなら、深夜労働などもすべて男子同様にすべきだ」と強く主張。女性を中心とする労働側は「絶対に譲らない」と反発した。プロジェクトメンバーは、後に「鬼の根回し」と異名をとる懸命の調整を続けた。企画官の松原亘子は徹夜仕事の後も自宅に帰り、子どもの弁当を作って、また霞ヶ関に戻って働いた。昭和59年4月、国会に間に合わすための期限ぎりぎりで開かれた最後の審議会。労働側代表は、直前になって、異論を唱え、審議会への出席を拒否。別室に立てこもった。赤松は、辞表を手に最後の説得に向かった。さまざまな困難な壁を乗り越えて「男女雇用機会均等法」を作った女性たちの知られざる格闘のドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 奇跡の心臓手術に挑む天才外科医の秘めた決意
    -
    平成8年12月3日、日本で初めての画期的な外科手術が行われた。動いている心臓をメスで切りとる「バチスタ手術」である。死を宣告された心臓病の患者に生の希望を与える劇的な手術だった。あまりに高度な技術を要するため、それまで日本では取り組む医師がいなかった。手術が行われたのは、神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院。執刀医は、須磨久善、46才。日本有数の外科医といわれながら、理想の医療を求めて、都内の大病院を去り、この地方病院にやってきた医師だった。須磨のもとに若い医師、看護婦たちが集まり、初めての手術に挑むプロジェクトが生まれた。患者は、53歳の銀行員。しかし、最初の手術は、病気の進行が早く、失敗に終わった。「手術は時期尚早」と医学界から批判の声がまき上がったとき、「この手術を続けてほしい」と声を上げたのは、亡くなった銀行員の妻だった。1ヶ月後、二人目の手術希望者が現れる。医学界が揺れる中、須磨と病院は「患者の意思がもっとも重要」と手術に踏み切る。手術は見事、成功。新しい治療法は広く認められていく。 番組は、新しい手術への挑戦を続ける医師たちと、自らの生命を医師たちに預け、再び人生を取り戻した患者たちの姿を通 じて、命の尊さを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 ゴジラ誕生特撮に賭けた80人の若者たち
    -
    ゴジラ。日本が生んだ世界のヒーローである。このゴジラが誕生したのは昭和29年。円谷英二が率いる若者集団が生み出した。特殊撮影を専門としていた円谷は、文芸作品が主流だった当時は、日の当たらない裏方の存在だった。大人だけではなく、子供たちも喜ぶ新しい映画を作りたい。そう思った円谷は素人スタッフたちをかき集め、製作期間が短い中、一致団結して新しい映画作りに情熱を注いだ。製作陣と共に、ゴジラの成否の鍵を握ったのが、ゴジラ役の中島春雄(25)だった。大部屋で切られ役専門だった中島は、初めての主役に役者人生の全てを懸ける。「縫いぐるみの中にいて何が主役か」。役者仲間に笑われながらも、中島は努力を重ねる。上野動物園に通いつめては、象やゴリラの動きを徹底的に研究した。重さ50キロ以上の縫いぐるみを着ては黙々と練習を重ねた。逆境からの一発逆転を懸け、ゴジラに挑んだ若者たち。日本のみならず世界の映画界に革命を起こした映画「ゴジラ」誕生の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 伝説の深き森を守れ世界遺産・屋久杉の島
    -
    樹齢数千年の屋久杉が並び立つ屋久島。 世界遺産にも登録されている屋久島は、日本を代表する自然の宝庫である。 高度経済成長に沸く昭和40年代、屋久杉は盛んに伐採されていた。森林面積は激減し、瀕死の状態にあった。この屋久杉を守ったのは、屋久島から東京に出てきていた二人の若者だった。柴鉄生と兵頭昌明。屋久島出身者の野球大会で知り合った二人は、屋久杉の危機を知り、東京での生活を捨て故郷に戻る。 しかし、屋久島に戻った二人が目にしたのは,屋久杉の伐採する林業に頼って生きている島の暮らしの現状だった。人々の生活を守るのか。それとも環境を守るのか。この難題を前に、二人は悪戦苦闘を繰り返す。問題解決のためには、林業や環境の政策から変える必要がある・・・。そう悟った二人は町議に立候補。やがて県や国をも動かしていった。故郷を愛し、自然を愛した男たちが、屋久杉を守るために闘った挑戦のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 町工場 世界へ翔ぶトランジスタラジオ・営業マンの闘い
    4.0
    世界中にその品質の高さを知られる日本の工業製品。しかし、かつて、「メイドインジャパン」といえば、「悪かろう、安かろう」の代名詞だった。その偏見を打ち破った革命商品がある。昭和30年、ソニーが開発した「トランジスタ・ラジオ」。世界各国で、爆発的に売れた陰には、命がけで海を渡った営業マンたちの壮絶な格闘のドラマがあった。異国の地では、想像を絶する『偏見』との闘いが待っていた。ドイツでは1年間1台のラジオも売れず、担当者は過労で倒れ、強制送還。アメリカでは、故障で返品が相次ぎ、撤退の危機に瀕した。 苦境を乗り越えるバネとなったのは、「輸出で外貨を稼ぎ、日本を再建したい」という思いだった。営業マンの多くが「敗戦」を背負っていた。広島で被爆した者、空襲で家を焼かれた者。営業マンたちの奮闘は、次第に「メイドインジャパン」を欧米に認めさせていく。番組は、トランジスタラジオを売るために、世界各地で奮闘した営業マンたちの熱い闘いを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた うまいコメが食べたいコシヒカリ ブランド米の伝説
    -
    昭和57年以来、販売シェアの全国一をキープし続けるコシヒカリ。日本一うまいと言われる米である。その作付け面積は、今や日本の全水田の3分の1を占める。戦後まもなく、福井の農業試験場で開発されたコシヒカリは、「越南17号」と名付けられた試験品種だった。味はうまいものの、肥料の管理などが面 倒で、「増産」が至上命題だった当時は、全く相手にされない米だった。その「越南17号」に目を留めたのが、新潟県長岡農業試験場の職員、杉谷文之40歳。杉谷は土地のやせた新潟の農業を救う「うまい米」を探していた。しかし、期待の越南17号は、刈り入れの直前、生育のしすぎでバタバタと倒れていった。杉谷たちは、過剰な生育を押さえるために、肥料の与え方で対処しようと試行錯誤を重ねる。この米に、一人の若い農家が着目する。やせた土地に苦しんでいた魚沼地区の小林正利だった。小林は、村を救うのはこの米しかないとプロジェクトに加わる。このうえなく痩せていた魚沼の土地は、偶然にも「越南17号」には最適の土地で、以後、魚沼は、この米の開発に地域の存亡を賭けるまでになった。 貧村を救おうと研究に打ち込んだ研究者と、地元農民の心の交流を軸に、日本一の米、コシヒカリ誕生のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた ツッパリ生徒と泣き虫先生伏見工業ラグビー部・日本一への挑戦
    5.0
    全国で「校内暴力」の嵐が吹き荒れていた昭和49年春。京都一「荒れた」高校、伏見工業に一人の新任教師が着任した。山口良治、31歳。かつてラクビーの日本代表キッカーとして活躍した山口は、ラグビー部の指導に情熱を燃やしていた。しかし、伏見工業の荒廃ぶりは想像を超えていた。校舎の中をバイクが走り回り、授業中はみなトランプや麻雀をしていた。教師たちも見て見ぬふりをしていた。  最初の職員会議で山口はなきながら訴えた。「それでも、あなた達は教師ですか」  会議の後、校長と二人の若手教師が山口を追ってきて言った。「山口君。一緒に学校をたて直してくれ」。こうして熱血教師たちの取り組みが始まった。  子供たちを立ち直させるためには、母校に「誇り」を持たせることが必要だった。そのためには不良の巣窟、ラグビー部を鍛え直し、全国大会に出ることを目標とする。  初の公式戦は、強豪・花園高校を相手に「112対0」で歴史的大敗。その屈辱をバネに、プロジェクトの闘いは始まった。泣きながら、身体ごと不良たちにぶつかっていく山口は「泣き虫先生」と呼ばれるようになっていった。そして、子供たちも次第に心を開き、全国優勝への夢に向かって突き進んでいく・・・。  今も教育界に語り継がれる、伝説の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた 日米逆転! コンビニを作った素人たち
    -
    70年代、スーパー業界17位のじり貧にあえいでいたイトーヨーカ堂。窓際の部署にいた30代の社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。小さな店舗に豊富な日用雑貨を取りそろえた長時間営業の店、コンビニエンスストアだった。 ビジネスノウハウを入手するため、最大手サウスランド社(セブンイレブン)に莫大な契約金を払い、屈辱的ともいえる契約を結ぶが、苦労の末に入手したマニュアルは日本では全く役に立たない代物だった。 しかも、未知のビジネスに賛同者は少なく、プロジェクトに集まったのは素人ばかり。元商社マンや自衛隊員、労働組合の元闘士・・・、15人の素人集団はゼロから独自の小売り戦略を練り始める。「全品買い取り、返品なし」「在庫は極力減らせ」「1個ずつの小分け配 送」江東区豊洲の酒屋を改造した一号店を舞台に作り上げられた手作りの戦略は、次第に日本独自の流通 機構に風穴を空けていく。15年後、セブンイレブンジャパンの売り上げは、アメリカの本家を抜いた。 日本の流通を変えたコンビニエンス・ストアの草創期に焦点をあて、社員たちの悪戦苦闘の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた 幻の金堂 ゼロからの挑戦薬師寺・鬼の名工と若武者たち
    1.0
    日本を代表する名刹・薬師寺。その中心にそびえる金堂は、400年前に消失したものを復元した、昭和最大の木造建築物である。実に5年の歳月をかけ、昭和51年に完成した。  僅かな資料をもとに、400年前の姿を復元するというこの難工事。その総指揮を執ったのが、「鬼」と恐れられた日本一の宮大工、西岡常一である。  この西岡のもとで工事に当たったのが、青森から九州まで、全国から集まった37人の大工たち。しかし、その多くが民家の仕事しか経験がなかった若い大工たちだった。 西岡には宮大工の仕事を通じて培ったある哲学があった。 「木には強い木と弱い木がある。しかし、強い木だけではいい建物は建たない。大工も同じだ。腕のいい大工も出来ない大工も必要なのだ。それをまとめていくのが棟梁の仕事だ。」    西岡は経験のない若手たちに、一つ一つ役割を与え、黄金の堂をよみがえらせていく。そして、最後の難関、大屋根の建造では、もっとも重要な「隅木」の製作を、若手の中でもっとも不器用だった一人の若手に任せた。若手は、見事な仕事で西岡に答えた。   日本古来の伝統技術の復活を目指し、金堂再建に挑んだ男たちのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた よみがえれ日本海ナホトカ号 重油流出・三〇万人の奇跡
    -
    平成9年1月、突然、日本海沿岸を襲った真っ黒な重油。ロシア船籍タンカー、ナホトカ号から流れ出した重油はドラム缶 三万1千本分。被害は日本海側の9府県にも上る未曾有の事故だった。各地の浜は、どす黒く汚れ、向こう5年、海はよみがえらないと言われた。地元の漁師たちにとってはまさに死活問題だった。浜と漁師を救ったのは、バケツとひしゃくで重油を掬いつづけた30万人に及ぶボランティア。「善意が奇跡を起こした」と世界中で報道されたこの快挙の陰には、ボランティアをまとめるために奔走した地元の青年たちの姿があった。 最大の被害を出した福井県三国町で立ち上がったのは、建設会社を営む35歳の長谷川啓治。 食料の調達、宿泊場所の確保、作業の指示・・。長谷川は会社を休み、地元の商店主や青年たちとともに膨大な作業に取り組んでいく。連日の荒天のため、作業は中止が続き、ボランティアと地元の間に確執も生じた。それを乗り越え、人々の善意がわずか3ヶ月で、浜をよみがえらせていく。「善意の奇跡」の裏側で繰り広げられた人間ドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた ロータリー47士の闘い夢のエンジン誕生からルマン制覇まで
    -
    ロータリーエンジン。 従来のピストン式のものと違い、小型で高出力、しかも静かなエンジンである。200年前から研究が進められ、夢のエンジンといわれてきた。このエンジンの開発に世界で初めて成功したのは、広島のマツダである。マツダは原爆の被害を奇跡的に免れた、三輪自動車メーカーだった。開発の中心となったのが、設計部次長の山本健一だった。山本は広島生まれ。妹を原爆で失った。その悲しみを乗り越え、広島の復興に尽くそうと、ロータリーエンジンの開発に全てをかけた。その山本の下で、47人の部下が困難な開発に携わった。「ロータリー47士」と名付けられた彼らは、いずれも山本と同じ思いを抱いた若者たちだった。彼らは、摩擦によってできる「悪魔の傷跡」を始め、克服が不可能とされた技術的課題を、意地と執念で次々と解決していった。 原爆で家族を失った男たちが、故郷の復興を願い成し遂げた、ロータリーエンジン開発のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 海のかなたの甲子園熱血教師たち・沖縄 涙の初勝利
    -
    去年春の選抜、甲子園は沖縄尚学の初優勝に沸いた。今や全国屈指の野球王国となった沖縄。その礎を築いたのは、昭和30年代初め、設備も用具も乏しい中で野球に情熱を注いだ若い教師たちだった。  本土が戦後の混乱から立ち直ろうとしていた当時、アメリカ統治下の沖縄は本土から隔絶された「忘れられた島」になろうとしていた。高校野球のレベルにも雲泥の差があった。海の彼方の甲子園は手の届かない夢に過ぎなかった。そんななか、野球を通 じて沖縄の若者たちに勇気を与えようという当時の日本高野連副会長佐伯達夫の呼びかけで、沖縄高野連が結成される。目標は甲子園出場、そして一勝だった。  その中心となって働いたのはまだ新米教師だった首里高監督、福原朝悦。彼は沖縄代表が初めて甲子園に出場できるようになった昭和33年の第40回記念大会、首里を率いて沖縄県のチームとして初めて甲子園の土を踏む。そして5年後、転勤した福原の後を引き継いで首里高監督となったOB徳田安太郎が、那覇高福原と因縁の対決の末、甲子園に出場し沖縄初の全国大会一勝をあげる。沖縄には一大高校野球ブームが盛り上がり、野球王国への道が拓かれていく。戦争の傷跡を胸に高校野球に情熱を注いだ男たちの軌跡を追う。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 厳寒 黒四ダムに挑む断崖絶壁の輸送作戦
    4.5
    のべ1千万人が働き、巨大プロジェクトの代名詞といわれた「黒四ダム」。その難工事の最大の焦点は、断崖絶壁がそそり立つ秘境・黒部に、60万トンにおよぶ資材をいかに運び上げるかだった。 資材輸送の大動脈としては、長野県から山をくり抜き黒部に達する「大町トンネル(現・関電トンネル)」が計画された。しかし、最低1年かかるトンネルの完成を待っていては、7年の工期に間に合わない恐れがあった。ダムの本体工事を受注した間組は、壮大な輸送作戦を計画する。400人に及ぶ強力で人力輸送を始める一方、標高2700メートルの立山の尾根をブルドーザーで越える前代未聞の挑戦に乗り出した。更に、トンネルをダムの建設地点から迎え堀りをするために、零下20度の黒部に5ヶ月間留まる越冬隊を組織した。 指揮に当たったのは、「大まむし」の異名をとった筋金入りのダム屋・中村精(くわし)。若者たちは、中村の号令の元に、全身全霊を込めて秘境・黒部に立ち向かっていった。 電力が経済復興の鍵だった昭和30年代、黒四ダムの建設に挑んだ男たちのドラマを追う。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 国境を越えた救出劇大やけど コンスタンチン君・命のリレー
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    1990年8月20日の夕方、旧ソ連のサハリンで、3歳の男の子が大やけどを負った。誤って熱湯が入ったバケツを倒したためだった。コンスタンチンくんの親は、医療技術が進んだ日本で手術が受けられないかと知り合いに相談。北海道庁に連絡を取った。その一本の電話がきっかけで、前例のない超法規的措置が、外務省、法務省、海上保安庁の間で検討されていく。「ビザはどうするのか」「飛行経験のないソ連領空を安全に飛べるのか」「手術に失敗したら日本の恥にならないか」…しかし、関係者は様々な思惑を超えて、見知らぬ幼児の命を救うことを最優先に掲げる。最初の電話からわずか17時間後、海上保安庁の輸送機がサハリンへ飛び、コンスタンチンくんは札幌医科大で手術を受けた。両親は涙ながらに日本人への感謝を述べ、ゴルバチョフ大統領も謝意を表明した。  小さな命を救おうと、東西冷戦末期、日本とソ連との間で交わされた、「善意」のバトンタッチを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 翼はよみがえったYS-11 日本初の国産旅客機
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    零戦を始めとする数々の戦闘機を開発し、航空王国と言われた日本。その伝統は、敗戦によって途絶えた。GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止は7年間続き、技術の伝承は最早不可能と誰もが思っていた。  戦後、神戸の職業安定所に並ぶ失業者の中に、英字新聞を片手に順番を待つ男がいた。土井武夫、47歳。戦闘機「飛燕」など、日本で最も多くの航空機の設計に関わった技術者だった。日雇いまがいの仕事をしながらも、土井はもう一度空を飛ぶ夢を捨てきれなかった。  それから10年。通産省は、昭和32年に日本人の手による旅客機開発をぶちあげ、プロジェクトチーム「輸送機設計研究協会(輸研)」を結成した。集まったのは、土井を始めとする50歳を過ぎた「戦闘機」組と、飛行機に乗ったこともない20代の若き技術者だった。両者は、はったりまじりの完成模型(モックアップ)を作り上げ、頭から信用しなかった政府から予算を獲得していった。 完成模型(モックアップ)の完成後、本格的な設計に入ったYS-11。「戦闘機組」と若者の間に立って、実質的に設計を主導した男がいた。東條英機の次男で、新三菱重工の技術部次長だった東條輝雄だった。  欧米とのギャップを熟知していた東條は、「輸研」の設計の誤りを正し、YS-11の試作機を完成させる。昭和37年、戦争から17年の空白の後、日本の翼が初めて空を飛んだ。しかし、試作機は横安定性などの問題を抱えていた。それを克服したのは、あえて東條の部下になり設計に協力し続けた土井武夫と、東條のもとで鍛えられていった若手技術者だった。  昭和40年、ついにYS-11は就航。誰もが不可能と思っていた航空技術の伝承は果たされた。しかし、その伝統はそれ以降、途絶えたままになっている…。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ パンダが日本にやってきたカンカン重病・知られざる11日間
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    1972年9月、日中国交正常化を記念して、中国政府から2頭のパンダ、カンカンとランランが日本に贈られることが決まった。驚いたのは受け入れの決まった上野動物園。当時パンダは「幻の動物」と言われ、日本国内の動物園関係者で飼育方法を知るものはいなかったのである。  急遽、当時の飼育課長・中川志郎をリーダーに「パンダ飼育プロジェクトチーム」が結成された。全員が日本に到着したパンダを見た瞬間、「こんなに大きいのか!」と驚き、未知の珍獣との悪戦苦闘が始まった。  パンダはきわめてデリケートな動物で、ロンドン動物園では過剰人気のストレスからパンダが倒れる事件も起きていた。カンカンとランランが飼育係を受け入れてくれるかどうか、勝負はそこにかかっていた。  飼育係の本間勝男は、信頼関係を築こうとパンダに声を掛け続けた。また獣医の田邉興記はパンダの行動を観察し続けた。試行錯誤が続くなか、来日10日目、オスのカンカンが風邪を引いてしまう。悪化させれば生命の危険があった。そうなれば外交問題になりかねない。しかし、野生の動物に薬を飲ませる事は副作用が心配された。プロジェクトチームは議論の末、ある賭けに出た。  「国賓の動物を死なせるわけにはいかない」という重圧のもとで、パンダプロジェクトチームに参加した飼育のプロたちの懸命な姿を描いていく。

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