Posted by ブクログ
2021年09月05日
【感想】
読んでいて絶句しっぱなしだった。
こんな生活が21世紀の先進国で、しかも世界一の大国であるアメリカで行われているとは。筆者が経験したエピソードの一つひとつに戦慄し、窒息しそうなぐらいの恐ろしさを身に感じていた。
筆者のタラは1986年、アイダホ州でモルモン教サバイバリストの両親の元、7人...続きを読む兄弟の末っ子として生まれる。父親は終末論を信じており、広大な家の庭に大量のガソリンと果物の瓶を隠していた。核戦争が起きた後の世界で生き延びるためだ。政府との接触を極端に避けているため、7人の子どものうち4人を自宅出産している。当然出生証明書は持っていない。
父親は「公立学校は政府による陰謀の一部で、子どもたちを神から遠ざけてしまう」という考えから、上の子ども3人を退学させた。下の子4人は小学校にすら通わせていない。タラも生まれてから一度も学校に行ったことはなく、勉強は全て家庭学習だった。日中は動物の世話をし、父親の仕事である廃材処理を手伝い、果物を瓶詰めし、「世界の終わり」に備える生活を送っていた。
このサバイバル生活でもっとも不自由で怖いのが、病院に行けないことである。父親が「病院とは身体を治療する場所ではなく、身体の中に悪魔を埋め込む場所だ」と家族を洗脳していたためだ。そのため、命を失ってもおかしくない大事故(実際家族の中では、指を失ったり、高い所から落ちて脳みそが漏れ出たりした人もいる)であっても、ハーブとアルコール、そしてスピリチュアルなオーラを配合したチンキ剤を身体に塗り、自然治癒に任せねばならない。
こうした暮らしを送っていた筆者が大学に合格するまでのエピソードと、大学教育を受けた後の価値観の変化が本書で語られるわけだが、そもそもそんな環境では大学受験なんて夢のまた夢の話である。まずは小・中学校クラスの勉強が必要であるし、さらにその前に、世間一般の『普通』を身につけなければならない。なにせ足に廃材がぶっ刺さって骨が見えても、手首の骨が砕けようとも、病院に行くという選択肢が「あり得なかった」人生を送ってきたのだ。
そうした世間一般の常識の欠如が象徴的に語られるエピソードがある。大学に進学した筆者が、芸術史の授業で使われている本を「教科書」だと思っていなかった話だ。
筆者は芸術の本を「読む」ということがわかっておらず、シラバスで50ページから85ページまでが試験範囲として割り当てられていても、そこを「読まなければならない」とは考えていなかった。彼女はただ教科書を絵として眺め、CDを音楽として聴いただけですませており、端的に言えば、「教科書とはなにか」という意味がわかっていなかったのだ。
こういう風に、いかに筆者がズレた価値観の中で人生を送ってきたかが盛りだくさんに紹介され、そのたびに一々恐怖を覚えてしまうのだが、本書の一番怖い部分は、親から植えつけられた価値観を前にして、無意識のうちに「自分が悪いのだ」と自己暗示をかけてしまう筆者の無垢さにあると思っている。
本書は500ページ近くあるのだが、大学入学を決めた、つまり洗脳を解くチャンスを手にいれたのは、ちょうど半分にあたる250ページ近くである。では本の残り半分には何が書かれているかというと、大学教育と親からの洗脳教育の間で葛藤する筆者の様子である。
大学に入っても、自らの価値観・世界観はそう簡単に覆らない。親元を離れ未知の世界に踏み込んでからも、彼女は自分の新しい居場所と故郷の山に置いてきた家族のことを思い返しては、幾度となく実家に帰っている。読み手からすれば「そんな狂った家族とは今すぐ縁を切れ」と思いたくなるのだが、これができないのが洗脳の怖いところだ。
例えば、タラは大学進学後に無一文になってしまい、学業どころか日々の生活すらままならなくなるのだが、教会のビショップから給付型の補助金申請を強く進められても、彼女は頑として断っていた。政府の補助金は「やつらに借りを作ること」になるからだ。もはや合理的ですらない本能レベルの拒絶である。しかも、この金の工面をどうしたかと言うと、実家で父親の仕事を手伝うことで穴埋めしようとしたのだ。最初は故郷の市街地にある小売店でアルバイトをして金を稼ごうとしていたのだが、父親からの「戻って家の仕事を手伝えば許してやる」という脅しに屈してしまい、再び廃材の仕事に就くことを決断したのだった。
幾度となく脱出のチャンスを与えられても、決して洗脳から抜け出すことができない。ずっと自分にふさわしい(と錯覚している)役割と場所の中に己を捉え続け、新しい価値観を否定し続ける。親という存在の残酷さと、自分の世界を支配している常識から抜け出すことの難しさが、彼女を30年間呪いのように縛り続けていたのだ。
ここまで凄い自伝本は、いまだかつて読んだことがない。
とにかく衝撃的な一冊。興味を持った方は是非読んでみて欲しい。
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【本書のまとめ】
1 生い立ち
筆者のタラは1986年、アイダホ州でモルモン教サバイバリストの両親の元、7人兄弟の末っ子として生まれた。
父が戦争状態に突入したのは20代後半になってからだ。
父が結婚したのは21歳。その後生まれた3人の子どもは病院で出産したが、父が27歳のときに産まれたルークは助産師が家で出産させた。そこから父は4人の子どもの出生証明書を申請しないことに決め、30代になった頃、兄たちを学校から退学させた。その後の四年間で、父は電話を捨て、運転免許の更新をしないと決め、食料の備蓄をはじめたのだ。
父は医者を憎んでいた。医者が行う治療は人を助けるためではなく人を殺すための悪魔の所業であり、ハーブを使った自然療法しか認めていなかった。
母は助産婦の仕事をしていたが、助産婦になりたいと思っていたわけではなかった。そもそもその助産婦は無免許であり、病院でなく自宅出産の介助をするヤミ医者のことだ。父の影響である。父は、助産婦の仕事は神の意志であり、わたしたち家族を祝福するものなのだと母に言い聞かせた。「一人前の助産婦になるんだ」というのが、彼の口癖であった。
私の家族では、学ぶことは完全にそれぞれの自己流だった。自らに割り当てられた仕事が終わり次第、自分でわかる範囲で何でも勉強することができた。だいたいは家にあった薬草学の本、算数の教科書が教材であったが、一度も授業やテストをすることがなかったため、3人目の子どものタイラー以外は、勉強をするという習慣が身につかなかった。
わたしはタイラーのことが大好きだった。この家において、タイラーだけが他の家族とテンポが違う。本を愛し、整頓と秩序を望み、知識を欲していた。
タイラーが「大学に行きたい」と口にしたとき、父は呆れ、そして烈火の如く怒った。父にとって学校とは政府が国民を洗脳するための矯正機関だからだ。それでも信念を曲げないタイラーを、父は毎日のように説得し続けた。「山を捨ててイルミナティに加わるなんて絶対に許さない」と。
結局、タイラーは身辺を整理して家を出た。タイラーは孤独の中に足を踏み入れ、信念に従ったのだ。
2 仕事
兄の代わりに廃材置き場の仕事の手伝いをすることになった私たちは、危険な現場で何度も怪我をした。廃材が足に刺さったり、高所から落下したり、ガソリンタンクから引火した炎が皮膚を焦がしたりしても、病院に行くことは許されなかった。いつしか子どもたちの頭の中からも、「ケガをしたら病院に行く」という選択肢が消えていた。
3 虐待
兄のショーンはわたしに暴力を振るうようになった。理由は、わたしが街にいる女性と同じように、恋愛に乗じて軽薄な女になる恐れからだ。メイクをする私を見て「まるで売春婦だ」という言葉を投げかけられもした。
ある日、ショーンが寝ている私の首を締め、廊下に引きずり出し、床に押さえつけた。その窮地を救ってくれたのは、家を出たはずのタイラーであった。たまたまその日実家に戻ってきていたのだ。
タイラー「離れるときが来たんだよ、タラ。長くここにいればいるほど、離れられなくなる」「タラ、世界は目の前に広がっているよ。君のためにね」「君の耳に自分の考えをふきこむ父さんから離れたら、世界は違って見えてくる」
タイラーから進学を勧められたものの、わたしは大学のことを想像できなかった。大学は私の人生には関係のない場所だからだ。
自分の人生がどうなるのかはもうわかっていた。18か19で結婚をする。父が農園の一画を私に与えてくれて、夫がそこに家を建てる。母がハーブについて、そして助産婦の仕事について教えてくれる。子供ができたら、母が子供を取り上げてくれ、そしていつの日か、きっと私が助産婦になるのだ。その人生に大学が入る余地はなかった。
ショーンが交通事故により負傷した際、脳から血を流す彼を、家に戻すか病院に送るかで葛藤することになる。私は病院に送ることを決意したが、それを聞いた父は沈黙を貫いていた。彼なりの抗議だったのだろう。
ショーンが回復してから3週間後、ある封筒が届いた。それは密かに入学試験を受けていた大学からの合格通知だった。
最初に感じたのは決意である。父のためには二度と働かないと。
一週間後、私はブリガム・ヤング大学に出願した。生まれて初めての学校であった。
4 大学生活
大学生活は衝撃と戸惑いの連続だった。学校には異教徒(非モルモン教徒)ばかりであり、授業ではわけのわからない言葉がブラックホールのように穴を開けていた。
ある芸術史の授業で、私は手を挙げた。「この言葉はどういう意味ですか?」とたんに、部屋中を沈黙が襲った。それは完全な、暴力的なまでの静寂だった。わたしは「ホロコースト」という言葉の意味がわからず、無邪気に質問してしまったのだ。
また私は、芸術史の授業で使われている本を「教科書」だと思っていなかった。それは音楽を聞くためのCDと、絵画を見るための画集であり、芸術の本を「読む」ということがわからなかった。つまり、シラバスで50ページから85ページが割り当てられていても、そこを「読まなければならない」とは考えていなかった。端的に言えば、「教科書がなにか」という意味がわかっていなかったのだ。
ただ、「教科書を読む」という理解は最高のアドヴァイスになった。明け方まで勉強を続け、学期末までにはAを取れるまで進歩した。
しかしながら、学期末に実家に戻った際、父と母は私を現実に引き戻した。「廃材置き場の仕事を手伝わないなら、ここから出ていきなさい」。私はその言葉に逆らえなかった。大学という経験を経ても、自分の殻をやぶることができない。スクラップ作業のためのブーツを身に着け、またあの危険な日々に身を投じたのだ。
作業場で、ショーンと父はある名前で私を読んだ。「おい、ニガー!」と。彼らはこう考えたのだ。「教育を受けて生意気になったアイツに必要なのは、時間を巻き戻すことだ」と。私を古いワタシに閉じ込めようとしたのだ。
しかし、今の私は昔とは違う。ニガーに込められた意味と、その差別と闘った人の歴史を、大学で学んでいたのだ。
ものごとを知る道を歩み始め、兄、父、そして自分自身について、根本的ななにかに気づいた瞬間であった。故意でも偶然でもなく、教養に基づく教えを他人から与えられた結果、自分たちの考えが形作られていたことを理解したのだ。
ショッピングモールの駐車場で、兄から再び虐待を受けた。車から強制的に引きずり出され、地面に叩きつけられ、服をめくり上げられた。腕を背中に回され、手首の骨が砕けた。暴力を振るわれているあいだ、私はずっと激しく笑い続けていた。駐車場で目撃したかもしれない誰かが、それはすべて悪ふざけだったと納得するように努力していたのだ。
家に戻った私は日記を書いた。「あのときわたしは、自分の意思をはっきりと伝えたのだろうか。なにをささやいて、何を叫んだのだろう。違う方法で伝えていたら、もっと落ち着いて話をしていたら、彼はやめてくれたはずだ」。悪かったのは自分だと考えると、頭がスッキリとし、感情が落ち着く。自分がそう信じられるまで日記を書き続けた。
しかし私は、そのあと人生で初めてのことをした。起きたことをそのまま日記に書いたのだ。あいまいで遠回しな言葉は使わないようにし、ほのめかしや示唆の影に自分を隠さないように努めた。自分の心の中で生きるという強い信念を、このときはじめて持ったのである。
5 夜明け
大学の心理学の授業で、「双極性障害」という言葉を習う。双極性障害に現れる症状は、鬱、操、パラノイアケージ、多幸症、誇大妄想、被害妄想…。つまり普段の父にそっくりであった。
私は大学の神経科学者と認知科学の専門家に片っ端から電話をし、双極性障害を患った患者と、「その家族――特に子ども」にふりかかる影響を耳にした。
そして、すべてを悟った。
わたしは19年間、父の思うがままに生きてきた。そんな私にとって、世の中の「普通」とはいったいなんなのか?父の教えを絶対的な真理として育ってきた子どもたちには、いったいどちらの世界が正しく、どちらの世界が狂っているのか?
そしていま、新しいことに挑戦するときが来たのだ。
わたしはケンブリッジ大学への留学プログラムに参加する。
学びたいものはなにか?と訊いたケンブリッジ大学の教授に対し、「史学史」だと答えた。
人間が過去について知ることには限界がある。歴史は常に、他人が語ったものにすぎない。思い違いを正されることがどういうことなのかを、わたしはよく理解していた。彼らが綴ったことは絶対ではなく、対話と修正の末の偏った結果にすぎないのだということであれば、世の中のほとんどの人が歴史と認識しているものが、私が教えられたものとは違っていたという事実について、自分自身と折り合いがつけられるのではないかと考えた。
論文のための読書によってわたしは素晴らしい仮説を得ることができた。それは、書物は詭弁などではないし、私自身も無力ではないという仮説だ。
私のケンブリッジでの生活は変化した。変化したというよりは、自らがケンブリッジにふさわしいと信じる誰かに変身していったと言ったほうがいいかもしれない。
私は初めて、自分が育った環境を公の場で語った。
6 教育
父が私の人生に存在し、そして私の人生を支配しようと全力を尽くしていたあのとき、私は兵隊のようなまなざしで彼を見ていた。彼の優しさを理解できなかった。父が目の前に立ちはだかり憤慨していると、思い出の中の安らかな父の姿を蘇らせることなどできなかった。父のそういった姿を思い出せるようになったのは、私たちが距離と時間によって隔てられた最近になってからだ。
しかし、私と父をより遠ざけるのは、時間や距離ではない。それは自己の変化だ。私はもう父が育てたあの子ではない。でも、彼は彼女を育てた父のままだ。
これをなんと呼んでくれてもかまわない。変身。変形。偽り。裏切り者と呼ぶ人もいるだろう。
私はこれを教育と呼ぶ。