Posted by ブクログ
2019年11月07日
本書は、実在の人物からの聞き取りを元にして作った小説。
小説といってもほとんどの出来事は実際に起こったことであるので、本書を読みすすめながら戦慄を感じずにはいられなかった。
本書の主人公ラリは、スロヴァキア生まれのユダヤ人。ユダヤ人としてアウシュヴィッツの収容所にナチスによって収容されたが、5、6...続きを読むカ国以上の言語を流ちょうに話すことができる持ち前の語学力を買われて、通常の過酷な作業からタトゥー係に抜擢される。何度も死ぬような拷問や病気に蝕まれながらも約3年近くも収容所で生きながらえたラリ。そしてラリを支えたのは同じく収容所に収容されていた若き女性ギタの存在だった。
いままでアウシュヴィッツの様子を描いた本を読んだのはヴィクトール・E・フランクルの傑作『夜と霧』だけであったが、この本を読んでさらに今までの自分のアウシュヴィッツのイメージが違っていたということが明らかになった。
どうしてもアウシュヴィッツ収容所というと「ガス室」や「焼却室」というイメージが強すぎて、連れてこられたユダヤ人はすぐに殺されていくというものでしかなかったが、実際にはそうでなかった。
まず、彼らは「労働力」として強制的に働かされていたのだ。
アウシュヴィッツ収容所の門にはこうスローガンが掲げてある。
『働けば自由になれる』
つまり、最初から全員を殺すつもりはない、働かない人間は殺すということなのだ。
しかし、収容所の生活は過酷以外のなにものでもない。
食事は野菜のかけらの少し浮いたスープが朝と夜だけ。病気になっても薬などは当然ない。働けなくなったものは容赦なく射殺される。
これだけでも、到底普通の人間が受ける待遇ではないのだが、ラリのようにナチスの若い監視兵に取り入ったり、外部から働きにくる町民から食べ物を融通してもらったりしている収容者も存在する。
驚くべきことに彼が収容所の中で貨幣として使っていたのはダイヤモンドやエメラルドなどの宝石だ。
どうやって彼はこれらの宝石を手に入れたのか。
ユダヤ人達は収容所に入る前に持ち物を持ち込むことを許されていた。ナチスがそれを許していたからだ。
しかし、それは彼らを安心させるための罠で、収容所に入ったとたん、持ち物は取り上げられ、衣服は脱がされ、髪の毛は全部刈られ、腕に収容者番号のタトゥーを入れられる。
こういった行為は、ナチスの兵士によって直接行われるのではなく、兵士の監視下において収容されているユダヤ人によって自ら行われるのだ。
ユダヤ人の持ち物の選別は女性のユダヤ人収容者の役目であり、持ち物の中から宝石などの金目の物をその場で盗みとることが可能だった。
それらをラリが集め、ラリは部外の町民からチョコレートやソーセージなどの食料や薬などを宝石で『買う』ことができた。ラリを助けていた町民にとってみれば、チョコレートやソーセージなどの日用品が高価な宝石に変わるのだからこんなに美味しい話はなかっただろう。
ラリは入手した食料や薬を他の収容者に与えたり、若い監視兵が欲しがっている物を入手したりし、特別な立場を築いていき収容所内での救世主的な役割を担っていた。
ラリの行為は当然収容所の規則に反するもので見つかればその場で処刑されるおそれがあったが、ラリはナチスの若い監視兵に贈り物などをすることによって手なずけていたので、見て見ぬふりをしてもらうことができたのだ。
その他、収容所内では想像を絶するさまざまな問題が存在していた。例えば、収容者同士でも、新入りと古参の収容者との収容者同士でのいさかいや「ジプシー」と呼ばれていたロマ人収容者達へのさらなる差別などがあった。
また、見た目の美しい女性ユダヤ人は強制的にナチス幹部の性奴隷にさせられるということで髪の毛はそのままにされ、やせ細らせないように食事の面で特別待遇を受けていたことなど、さまざまな非人道的な行為が繰り返されていた。
まさにアウシュヴィッツはこの世の地獄であったのだ。
このようにアウシュヴィッツ収容所に入れられたユダヤ人は問答無用ですぐに皆殺しにされていたものという僕が思っていたイメージとはだいぶ違うものであった。
実際に、収容されていたラリも後に『ホロコースト』と言われるような、これほど大規模な殺戮が実際に行われていたということは知らなかったのではないだろうか。それは、収容所のナチス兵なども同じだっただろう。もちろん、アウシュヴィッツ収容所を解放したソビエト兵達もナチスによってこれほどの殺戮が行われていたということは知らなかったに違いない。
実際に『ホロコースト』の全容が明らかになったのは、終戦後のことだ。
多くの虐殺の証拠は隠蔽され、その遺体も地中深くに埋められ発見が難しかった。当初は100万人程度のユダヤ人が殺されたのではないかと言われていたが、実際には900万人から1000万人もの罪のないユダヤ人たちが虐殺されていたのだ。
この小説で書かれていることはホロコーストで行われたごくごく一部のことであり、主人公のラリは本当に奇跡的にラッキーな立場にいたというだけだったのだ。
人間はどこまで残酷になれるのであろうか。
戦争という狂気の中で、人間は良くも悪くもそういったことに『慣れてしまう』のだ。
ホロコーストに関与したナチスの大幹部アドルフ・アイヒマンが終戦後に逮捕され、裁判で語った言葉がある
「私は命令された自分の仕事をしただけです」
と。
そこには罪の呵責など全くない。
ただ事務仕事のようにユダヤ人を殺していた。
なによりもアイヒマンを見た多くの人々が衝撃を受けたのは、彼がふてぶてしい大悪党ではなく、何処にでもいる小役人的な凡人にしか見えなかったということだ。
このように、多くの『普通』のドイツ人たちが、ホロコーストを起こしていた。
もちろん、ナチスの中には生まれながらのサディスト的な人間もいたかもしれないが、多くの兵士は普通の人間であっただろう。そういった『普通の人間』を機械的に変えてしまうのが『戦争』の恐ろしさなのだ。
戦争だけでなく、よく無差別テロや無差別銃発砲事件などのニュースで「犯人」が「女性や子供にも容赦なく銃弾を放った」などと報道されるが、そういった「犯人」の思考回路は完全にこのホロコーストを起こした人間と同じで、相手をもはや『人間』だとは認識していない。
つまり、「犯人」の思考回路の中ではもう相手の「人間」は『人間』ではなく「虫けら」や「害虫」などといった「殺してもよいもの」「殺すべきもの」に変化してしまっているのだ。
そういった「犯人」に対して「女性」だから「子供」だからなどという、相手に「情け」を求める行為は全く意味をなさない。
なぜなら「犯人」の思考からみれば
「害虫のメスはさらに多くの害虫を産み出すから真っ先に殺さなきゃダメだろ」
「害虫の子供はこれから害をなす存在だから、害をなす前に殺さなきゃダメだろ」
という思考回路になっているからだ。
自分でこのレビューを書いていてなんだか気分が悪くなってきてしまったが「戦争」というものは普通の人間をこんな風に変えてしまうということなのだ。
今に生きる我々は、絶対にこのことを忘れてはいけない。
人間は『暴力』に慣れる。
人間は『残酷さ』に慣れる。
そして、人間は『狂気』に簡単に取り憑かれる。
これが人間の本質なのだ。
このことを常に我々は肝に銘じ、人間が過去に起こした罪を忘れることなく、生き方を戒めながら、この先も生きていくことが必要なのだろう。