Posted by ブクログ
2020年07月20日
『夜空の下を埋め尽くす光の海のような夜景の煌めきに感嘆の声を上げる人達は、闇の中にただ一つ灯る小さな明かりの存在など気にもしない』―『摩天楼』
「金色夜叉」を読んだことはない。それが作者尾崎紅葉の死によって未完となっていることも知らなかったが、奇しくもその物語を下敷きとした本作が異才の人橋本治の遺...続きを読む作となったことに不思議な繋がりを感じる。尾崎紅葉が日清戦争後の社会状況を背景に物語を展開したように、登場人物の名前もそのままに受け継ぐ「黄金夜界」でもまた今の世の中に即して物語は進むが、その構図は驚くほど本質的に変わっていない。自分は根本的に人の善意というものを信じるものではあるけれど、二つの物語が共通して突きつけるものは本質的な人間の欲望であり、その欲望は本質的に性悪であるように映る。
尾崎紅葉が「金色夜叉」の結末をどのように構想していたかは兎も角も、橋本治は残された物語の中に極めて現代的な人間の在り方を投影し、未完の物語の枠組みの中で結末を用意した。それは120年前の人が感じたであろう刹那ですらまどろこしいと感じてしまう現代人であるからこその選択肢。すれ違いを修復する為に掛けられる時間の長さに違いがあればこその結末だったのだろうと想像する。全て理屈で選び取ることが出来ると無意識に信じている現代人は、身体的な思考が脳の表層で展開する意識よりも多くの情報を処理し判断を下しているということに理解が及ばない。いきおい身体的思考に資する時間を用意出来ないこととなる。そこに生まれるのはまさに刹那的、詰まりは持続性を欠く判断であるように思う。
橋本治の駒場祭の有名な口上「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」が人々の記憶に留まるのは、昭和43年という文脈の中でその言葉の指し示す意味が響いたからでもあるけれど、その「音」が直接身体の真ん中に入り込んでくる感覚があるからだと思う。七五調の調子への親和性、などと理屈を捏ねても、その「響く感覚」は何も解明されることはない。理屈を超えて受け継がれている身体性の本能に橋本治はとても敏感であったのだと思う。そのことが「金色夜叉」の展開を現代という場面に移し替える時に作家の本質として浮き上がるように思う。
思えば、それは「桃尻娘」から「双調平家物語」へ繋がる流れと同じ線上に在るものなのかも知れないと、橋本治という山の裾の広がりを無視して夢想してみる。遅まきながら橋本治を読み直してみたくなる。