Posted by ブクログ
2019年12月11日
『この塩梅(あんばい)を見極める名人が、お由(ゆう)なのだった。繊細な見立てと鋭敏な判じを要する技だが、三年前に職人頭(がしら)に据えられてから、彼女(かれ)は一度として差配をしくじったことがなかった』―『お柄杓』
日本史も世界史も、歴史小説も時代小説も好きだったことはないのだけれど、何故か木内昇...続きを読むの小説だけは好んで読む。話の筋は凝ったようでいて、その実古典落語のように落ち所は大概見えた通り。それでも正に落語を毎度毎度飽きもせずに聞くように似たような話を毎度毎度読んでいるような気がする。
もちろん木内昇の切り取る時代は誰も彼もが髷を結っていた時代ばかりではないのだが、作風の良さはその時代の話の時に一番に出ると思う。多分、今となっては少々聞き慣れない江戸の言葉遣いを聞いているのも愉しさの一つなのだろう。言葉遣いに対するこだわりは時代場所を問わず木内昇の書くものの特徴の一つとなっていると思う。そこに個人の生き様が宿る。
この本では史実と絡んだ話はほとんど無いか、出てきても物語の借景程の距離感で視野に入る程度だが、歴史に翻弄される式の人間像を描かないところもまた気に入っているのだと思う。ともすると、誰もが知っている史実の裏でこんなことが起きていたのだ的な話を聞かされがち、と思ってしまうのは、歴史嫌いの天邪鬼のせいだろうか。しかし、歴史の流れに物理法則のような必然は余りなく、その流れの中で人が余りにも無力に描かれるのはどうも苦手だ。その点、木内昇の描く歴史には嘘くさい理屈が無いところがよい。繰り返しになるが、明治の話や昭和の話もある著者だが、なんと言っても江戸の話がよい。こ短篇が。「茗荷谷の猫」や「漂砂のうたう」と並んで、本書も大上段に構えたところもないが渡世にいくらでも転がっているような形に物語を仕上げて少しほろりとさせる人情噺のような短篇集。いくらでも聞ける噺と思う。