Posted by ブクログ
2021年05月30日
処女長編小説ということだが、回想が小説の大半を占めるのは最初からだったようだ。悦子はイギリスでの現在の生活と長崎での過去の経験とを重ね合わせて回想している。私は過去の自分とこんなにはっきり会話できるだろうか。
過去はおぼろげなものだとしても、私のそれは虫食いだらけで、ぜんぜん掘り返せない。
会話の...続きを読むズレは、多かれ少なかれある。自分が10の言葉を発しても、相手が10で受け取ることはほぼできないといっていい。お互いに了解している会話でも、9割以上の理解ではないかと思っている。9割以上というのはあてずっぽうだとしても、自分の意図したことは100%伝わらない。それを嘆いているわけではなく、そういうものだと思っている。言葉や文章で伝えることには限界がある。伝言ゲームという遊びはこどもにそれを伝えることなのではないかと思う。
会話には全くすれ違っていることもしばしばある。お互いがお互いの言葉のボールを好きな方向に投げているような、自分の頭の中と会話しているような、お互いが言葉を発しているけれども、第三者から見ると全くかみ合っていない会話がある。この小説の中にもそれが出てくる。まったくかみ合っていない会話、自分のことが頭の中にたくさんあって相手の話が全然入ってきてない会話、自分のことしか言っていない会話。この小説には大なり小なりそういった会話のズレが出てくるが、それが普通なのかもしれない。
でもあえてこういう会話のズレを見せられるとそれを意識する。伝える努力をしなければ相手にはうまく伝わらないということが思い知らされる。一方で、会話のズレで楽しむこともできる。思い違いが後で笑い話になったり、意図的にズラすユーモアだったり。
小説の随所に、ホラーというよりも怪談といった方がしっくりくるようなシーンが出てくる。人間の狂気が薄暗いシーンで語られている。この怪談話のような回想シーンを読むと、過去にあった嫌なことや不快だったことなどのイメージは、薄暗い倉庫の屋根裏にでも収まっているように頭の中に記憶されているのだろうと想像できる。だとすると、こういう記憶には風を通して日を当ててやった方が良いように思う。頭の大掃除はどうやってやる?
解説を読んで、この小説がもともと英語で書かれたものだということを思い出した。日本の場面は日本の小説のようで、イギリスの場面は海外の小説のようだと感じていたけど、訳者が巧みだったことも知った。英語の原書を読むとどのような印象なのだろう。日本語を読むように英語を読めれば面白いのに。翻訳をする人たちはどのような感覚なのだろう。英語はただの記号の羅列としか思えないので、そういう感覚をいつか経験してみたい。
長崎の街を舞台にした小説を過去にいくつか読んだが、また読みたい。長崎は重い歴史をもった重要な場所だ。