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※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 史上未曾有の大動乱期、没落する公家社会の最高貴女として、美しい自然と人生の実相を的確に、永遠の「詩」としてうたいあげた女性歌人の伝記とその全作品集。永福門院と時代の影を捉えて、筆者の筆は冴えわたる。
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Posted by ブクログ
第1部で、京極派の中心歌人で伏見院を夫とする永福門院の生涯を詳しく追う。政治的に波乱に満ちた鎌倉末期から室町初期を生き抜いた永福門院は、持明院統と京極派和歌と西園寺家を毅然として守り抜いたのだ。 第2部は、勅撰和歌集の玉葉集から永福門院の49首、風雅集から69首の和歌を選んで、詳細な解説を加えている...続きを読む。 第3部は、永福門院の全作品を掲載。 著者は、玉葉集の永福門院の和歌を「清純な張りのある美しさ」とし、風雅集のものを「自然と人生すべてを包み込む、深い強靭な愛」としている。この評からも分かるように、京極派和歌は、伝統和歌の縛りに捕らわれず、自身の観照、思いを直截に歌い上げたのだ。口語的な表現も厭わず斬新な表現をしている。永福門院の叙景歌の斬新さにはもとから敬服していたのであるが、この本では、恋愛歌を多く取り上げているのに驚く。古今集や新古今集とは全く違う、現代の恋愛歌にも通じる新しさに目を開かされる思いであった。 参考に、下に「コレクション日本歌人選 永福門院」のレビューを再録しておく。恋愛歌は取り上げていないので、それはまたのお楽しみ。 永福門院(1271~1342)は、鎌倉時代後期の持明院統の伏見院の中宮で、京極為兼を和歌の師とする伏見院に導かれ、京極派の中心歌人となり、子の花園院と孫の光厳院の和歌の師ともなった。勅撰和歌集の「玉葉集」「風雅集」にその和歌が多く採られている。 京極為兼は、心に思うことはそのまま読むことを強調し、自然をも自分の五感で捉えたことを、必ずしも伝統にとらわれない言葉で率直に詠むことを勧める。永福門院は、自然をじっと見つめて、対比や時間経過を表す言葉を駆使し、清新な叙景歌を歌い上げる。恋愛歌でも分析的な歌いぶりだ。近代和歌に通じるものがあって、非常に親しみが持てる。 この本は、代表歌五十首を見開き2ページで解釈、語句・文法、詠まれた背景、参考歌などを丁寧に解説していてとても分かりやすい。歌をいくつか挙げておく。 昔よりいく情けをか映しみるいつもの空にいつも澄む月 さとざとの鳥の初音はきこゆれどまだ月たかき暁の空 山風の吹きわたるかときく程に檜原に雨のかかるなりけり しおりつる風は籬にしづまりて小萩がうへに雨そそくなり 空清く月さしのぼる山の端にとまりて消ゆる雲の一群 夕月日軒ばの影はうつり消えて花の上にぞしばし残れる 夕立の雲も残らず空晴れて簾をのぼる宵の月影 宵過ぎて月まだ遅き山の端の雲に光れる秋の稲妻 花の上にしばし映ろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり ま萩ちる庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく 村鳥の羽音してたつ朝明の汀のあしも雪降りにけり 山あいにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり かくしてぞきのふも暮れし山の端の入日のあとに鐘のこゑごゑ
永福門院の和歌は、透徹しているように思う。厳しい。雑多がない。ひんやりとした印象をもつ。 和歌の価値や真偽は、読み手の体感した「空間」の深みと、それを再現する言葉の凝集性にあるのではないかということを思った。 例えば「夜の雨のなごりの風に雲絶えて花ふきみだす春のあけぼの」という歌。 これは決し...続きを読むて悪い歌ではないが、読み手の感動であったり、迫真性といったものの表現には至っていない。眼前の風景に対して、そこに「入りきらない」ままにしているから、「動き」を「動き」として定着することには失敗しているように思う。悪く言えば冷静にすぎる。京極派の透徹したリアリズムは決して、対象との乖離から、導かれているわけではないと思う。第1句~3句と、それ以降の関連が飛躍しすぎている、断絶している。防寒している感じがする。 一方で「風の音のはげしくわたる梢よりむら雲さむき三日月の影」 という永福門院の歌。ここには驚きがあるように私には思える。眼前の風景の中に入って、そこで行われていることに、「立ち会って」いる、そうした身体の挿入が垣間見える。だから、一瞬間が凍結されていながら、映像のようなダイナミズムの展開がここには映されている。 ◎以下引用 為兼の歌論ー為兼卿和歌抄 今どきの風流人の一般に考えているものではない。心にある志、胸中に動く思い、それを言葉に表し書いたのが詩であり歌。あくまで自分自身の眼に見て、肌に感じ、心に響いた現実の自然を、生きた姿のまま捉える 明恵-歌が風雅にもやさしくも詠めるのは、心が風雅であり又やさしいから。 B梢よりよこぎる花をさきだてて山本わたる春の夕風 Bあふち散る梢に雨はやや晴れて軒のあやめに残る玉水 B峯の雪をむらむら雲に吹きまぜてわたる嵐はかたもさだめず ⇔野守鏡(のもりのかがみ):いつはり飾れる事ながら、おもしろくやさしう詠め 夜の雨のなごりの風に雲たえて花ふきみだす春のあけぼの →動きがない。要素の羅列。要素同士が浸透しあっている感じがない。ぶつ切り。花がふきみだすことのダイナミズムが、第1,2,3句によって高まっていかない。ふきみだす花を見た時の、空間における集中の度合いが低い。() うす霧の晴るる朝けの庭見れば草にあまれる秋のしら露 →ひとつの線でもって、要素が連なっている。その連関を構成している空間が凝集されている。草にあまれる秋のしら露への凝視や、その出会いにおける空間の密度が、第1,2,3句によって見事に装飾され、高まりを見せている。 風の音のはげしくわたる梢よりむら雲さむき三日月の影 花のうへにしばしうつろふ夕づく日入るともなしにかげ消えにけり 寒き雨はかれ野の野原に降りしめて山松風のおともだにせず →素晴らしい。空間の奥行を感じる。沈黙が見事に象徴されている。 沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯 →西行を彷彿とする。人生の果てのなさ、無窮が明確に表現されている。「奥の峯」の登場や、それとの出会いまでのプロセスが動的に表現されている。秀作。 み雪降る枯れ木の末のさむけきにつばさをたれて鳥なくなり →音調的にはやや第五句でしまりが悪かったように思うが、「枯れ木」と、「つばさたれた鳥」の関連、その全体を多く「情感」や「空気」がよく表象されている。佳作 なほさゆる嵐は雪を吹きまぜて夕暮さむき春雨のそら →表したい状況が明確。佳作。 をちこちの山は桜の花ざかり野べは霞みにうぐひすの声 →うららかな春が的確に表現されている。幽玄や観照の世界ではなく、みずみずしさ、初々しさに満ちた作品、佳作。 山もとの鳥の声よりあけそめて花もむらむら色ぞみえゆく →花もの『も』がきいていると思う。鳥の声であけたのに「くわえて」「連動して」というところが「も」の存在によってうまく喚起されている。歌全体としては、花の色が「だんだん」と浮き彫りになってくる、こちらに明確になってくるそのダイナミズムが表現されている。優品。 入相の声する山のかげくれて花の木のまに月いでにけり →対比が利いている。月が出てくるときの高揚をよく示している。佳品。 しほりつる風はまがきにしづまりて小萩が上に雨そそくなり →優品。転換がよく示されている。雨へと移行するその瞬間のなんともいえない継起がよく見える うす霧の晴るるあさけの庭みれば草にあまれる秋のしらつゆ →優品。生命の潤いがすぐに想起される。気品がある。 秋の雨のものさむくふる夕暮の空にしほれてわたるかりがね →佳品。洗練はされていないが、僕は好き ふりまさる雨夜のねやにきりぎりすたえだえになる声もかなしき →4、5句がそのままなのが惜しい。佳品 空きよく月さしのぼる山のはにとまりてきゆる雲の一むら →とまりてきゆる という表現が素晴らしい。優品。 夕暮れの庭すさまじき秋風に葉おちてむら雨ぞふる →秋風、葉落ちて、雨ふる が論理的にすぎる。 風の音のはげしくわたる梢よりむら雲さむき三日月の影 →躍動感がある。優品。 さ夜深き軒ばの峯に月は入りてくらき日原に嵐をぞきく →大きい歌だと思う。大柄。佳品。 山吹の吹きわたるかと聞くほどに檜原に雨のかかるなりけり →空間がよく想像される。佳品
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永福門院 飛翔する南北朝女性歌人
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