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ウォーキング途中の道端に置かれた石と、添えられた花。埋められている「なにか」――問いは残されたまま「わたし」の記録は記憶を辿り、老いと死への思索に漂う。清冽なる本格小説集。
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Posted by ブクログ
『しかしそれは晩年の今村監督から逆算した、わたしが捏造した記憶であるようにも思う。そんなはずはないのに、そこだけにスポットライトがあたっているようだった』-『石を置き、花を添える』 記憶と想像のあわいをすすむような印象、と初めて川崎徹の著作を読んだ時に思った。それはエッセイとも小説とも、すっぱりと...続きを読む決めて呼んでしまうことが躊躇われるような読後感だった。再び川崎徹の著作を手にして、やはり、と思い返す。 どこまでも記憶を辿るような話が進んでゆくようでありながら、そこにはにわかに事実とは思えないような(と書くのは少し大げさ過ぎるし、読んで受け取る印象からすれば事実ではなく、それらは極めて自然に文字の中に埋もれていて、読み手の頭の中で鮮やかと言ってもよい位にはっきりとした像を結ぶ)エピソードが散りばめられている。 決して、だからどうだというような否定的な気持ちがあってそう言うのではない。味わいが随分異なるけれども、どこかゼーバルトに通じるような虚実のない交ぜがあるように思われて、そのことが不思議な気持ちの空洞を生むように思う、ということが言いたいだけだ。そしてそれが案外癖になるのだ、とも。 一方で虚実の混じり合ったようなとか、記憶と想像のあわいとか、言ってはみたけれども、よくよく考えてみれば全ての小説には少なからずそういう側面がある筈だろうとも思う。どれ程作家が否定したとしても、小説の中の登場人物には作家の記憶が少しずつ埋め込まれているのだろうと思う(たとえそれが時代小説やSFのようなものであったとしても)。だから、敢えてそれは取り立てていう程のことでもないようにも思う。思いながらも、川崎徹やゼーバルトの書き表す世界の、どちらの側へも傾いてゆかないこの感触はなんなのだろうと、やはり思う。 映像が、はっきりとイメージされる。それは本当に自分の中にあった映像であるような気がしているが、よくよく記憶を確かめると定かではない。浮かんだ映像には、音が付いてくる。交わされる言葉の断片が聞こえたような気になる。鳴く鳥の声や、猫のたてる音、風が窓を打つ響き。何を意味する訳でもない音が次々と頭の中を満たしてくる。ただの風景が、背景音と一緒になったとしても決して何を意味する訳でもない筈なのに、言葉に置き換わることなく何かを意味してしまう。 その、言葉の理屈にならなかった、省かれた過程の部分を担うはずだった何かが、入力と結果の存在感の強さとのコントラストで、いよいよ不在であることを意識させされる。境を見極められないことの心許なさを意識してしまう。川崎徹は語られるだろうと思われた話を決して続けようとしない。 『ペダルを踏むとキーキー苦し気な音がするのは相変らずだったが、いかに自分が必要とされているかを自覚しているかの如く、わたしが乗っていた頃とは比較にならぬ力強さと躍動感が、自転車自体にみなぎっていた。わたしは嬉しかった』-『石を置き、花を添える』
死についてのいくつかのはなし。エッセイのように書かれるはなし。たんたんとしているように思えて、感情に触れられるように思えたのです。
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石を置き、花を添える
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川崎徹
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