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Posted by ブクログ
はっきり言って何も起きない、筋書きがあるともいえない、ないないづくしの家族小説(大きな出来事は落雷くらい)。なのだけれど、この平凡な家族の生活をいつまでも見ていたいような、不思議な気分に浸ってしまった。そう思わせるのは、解説が指摘するように、結局はこの平凡な生活が永遠には続かないことへの切なさが、背後に流れているからだろうか。
本作は、1964年9月~65年1月の『日本経済新聞』夕刊連載小説。つまり、東京五輪とまさに同時期なわけで、五輪の「華やかさ」で印象付けられる年に、こうした静謐な作品が連載されていたことに、高度成長という時代の多面性も感じた。
Posted by ブクログ
まず前提として、本書は“純文学”であるということを分かっていなければならない。決してエンタメ小説ではない。基本、“退屈でつまらない”、それが純文学である。人を楽しませるために書かれた本ではない。
前情報なく、本書を読み始めると、「何だこの退屈な小説は」と思い、途中で投げ出してしまうかもしれない。なので、巻末の解説を最初に読むことをおすすめする。
「幸せとは何でもない日常にこそあるのだ」
確かにそうだろう。そう思って読んでいた。退屈を愛でること、それこそが幸福であると。
しかし、どうやらそんな単純な話ではないことに途中気づいた。
当たり前の日常は、当たり前“だけ”ではない。退屈な日常は、実は、退屈ばかりではない。
そこには必ず、“危うさ”が潜んでいる。
当たり前も、退屈も、いつそれが消えてなくなってもおかしくない。実はとても不安定で、危ういものである。夕べの雲のように、いまの形は次の瞬間には変わっている、言い換えれば、いまの形は次の瞬間には“消えている”のである。そう考えると、いまの平凡な日常が、“いま”であるはずなのに、どこか懐かしく思われてくる。
ただただ退屈を愛でるだけでは、退屈な日常を真に理解しているとはいえない。
「幸せとは何でもない日常にこそある」
確かにそうであるが、その裏側に潜む“危うさ”もセットにして日常を捉えること。
「懐かしい」には、「哀しい」が含まれている。懐かしいと思うとき、そこにはどこか哀しい気持ちも含まれている。そのような、懐かしくて哀しい気持ちをもって、今を、日常を、見つめる。ありふれた日常がまた違って見えてくる。私は退屈を愛でるだろう。
私の幸福は、不幸と表裏一体であることで存在している。常にそういった気持ちでありたい。
最後に。
小説なのだが、どこか詩的な感じがした。詩を読んでいるような気持ちになった。
また、途中、「梶井基次郎の作品っぽいな」と感じたのだが、作家案内にもあったように、やはり影響を受けているのかなと思った。
少々長く感じたので、『静物』くらいの長さでもよかったかも、というのが正直な感想。
Posted by ブクログ
昭和39年に新聞に連載された小説
大阪から東京の丘の上の一軒家に越してきた
大浦一家
風除けの木の選定に悩む物書きの主人とその妻
3人の子供達の日常が主人の目線で語られていきます
ムカデに刺されたり雷が家の中に落ちたり
と事件らしいこともあるけれど
夏休みの宿題を子供達以上に必死に段取りをする両親 ぼんやりとなすがままの子供達の姿に既視感を覚え
父と息子がお昼ご飯の時一緒にお湯を沸かす一部始終が妙に可笑しかったり
家族以外の人達にはどうでも良い
平凡でつまらない家庭内の出来事や約束事が
何でこんなに面白いんだろう
読みながらずっとニヤニヤしていて
そして思い出した
気がついた
家族との何でもない日常
記憶にも残らないそんな毎日が
とても暖かくて楽しい時間だった事
それは現在進行形でもある事
60年以上も前の昭和の家族風景
自然と昆虫が人にとても近しい存在だったけれど
みんなが普通に穏やかに生きている毎日は
昔も今もこれからも同じ
幸せな風景
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