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Posted by ブクログ
本書は、哲学者である九鬼修造が、日本特有の感覚である「いき」の構造について論じたものです。
解説によると、九鬼はあのハイデガーやベルクソンにも評価され、サルトルが家庭教師をつとめたこともあるとのこと。日本の哲学者としては西田幾多郎が有名でしょうが、日本の哲学者は彼だけではないんですね。
本書は古典的な哲学書ではありますが、例えばハンナアーレントにおけるアリストテレス哲学のように前提となる基本的知識を必要としないため、非常に読みやすいものとなっています。
そのため、哲学に興味がある方、古典に触れてみたい方、読みやすい岩波文庫を探している方など本書はおすすめです。
本書において「いき」とは、「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」という三要素で述べられています。
すなわち、異性に対する可能性を可能性として終始せしめんとする武士道的理想主義と、無常な運命を静観しようとする仏教的非現実性とにより、媚態を示しつつも漸近線のように決して交わることがないような態度を指すと考えられます。
四章以降では、着物に素足がいきであるとか、平行線、特に横縞よりも縦縞の方がいきであるとか、「いき」の客観的表現について述べられていますが、このあたりはもはや九鬼の個人的趣向にすぎないというか、フェティシズムが大いに反映されたものだろうと思わなくもないのですが、それはそれとして、日本における「いき」というものを言語化したという点で非常に本書は面白い一冊であると感じました。
Posted by ブクログ
・九鬼周造は、江戸の美意識であった「粋(いき)」の意味を哲学的に探り、恋愛にある緊張感や儚さ、近松や西鶴の描く、心の交情。その本質的なところに「いき」があると云っています。
「いきの第一の徴表は、相手に対する媚態である。
関係が、いきの原本的存在を形成していることは、いきごとが、いろごと、を意味するのでも分かる。
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が、極限に達せざることである。
いきは媚態でありながら、なお相手に対して、一種の反抗を示す強みを持った意識である」
(九鬼周造)
まず第一に、「いき」には「媚態」があり、相手を惹き付けようとする色気こそが、いきの大前提なのだそうです。
そして、恋愛には、緊張感が大切で、いざ深い仲になってしまうと、その媚態は消え去り、いきではなくなってしまうのだそうです。
近づきたいから生まれるのが、いき。しかし、近づきすぎてもだめ……。この微妙な距離感でないと、いきにはなりません。そこで、生まれたのが、意気地(いきじ)という反抗的な態度です。たとえば、武士は食わねど高楊枝、宵越しの金は持たぬ、というどこか突き放したやり方も、いきといわれる所以です。
また、運命を受け入れる、諦めの気持ちもいきには必要といいます。
恋愛においては、相手を好きになっても構わないけれど、そのことで束縛や、未練があるなら、それは断つ(諦める)のだそうです。好きだとしても、相手に縛られるということは、「いき」ではなくなってしまう。好きでありながらも、その支配下には入らない、のが良いそうです。
この、媚態、意気地、諦観、の三位一体がいきの定義としていて、成る程と興味深いのですが、ここで、九鬼自身が実例として挙げているのを見ると、いき特有の複雑さが分かります。
(九鬼の女性観に対するいき)
「只、まっすぐ立っているのではなく、
少し姿勢を崩し、姿はほっそり柳腰。丸顔よりも、細面が宜しい。
目は、流し目。過去の憂いを感じさせる光沢。軽やかな諦めと、凛とした張りがあること。
口は、緊張と緩みの絶妙なところが好い。憂いを感じさせて、厚化粧は野暮である。
髪形は、きちっとさせないつぶし島田など、少し崩したものがいきである。
着物は揺れる物で、襟足を見せるように引き下げた抜衣紋(ぬきえもん)が色っぽい。
湯上がりのような上気した肌に浴衣を羽織って解れ髪。こういうのがいきである……」
個人的に思うのは、アメリカなどでは、胸が大きければ大きいほど良いというのがアメリカ人のエロスの考え方ですが、うなじがなんとなく、見えたり見えなかったりするのが色っぽい、エロスだ、というのは、アメリカ人の感覚にはないです。
「いいな」「いきだな」、と思う日本人の振るまい、生き方に蓄積されていったものを知れると同時に、国際的な第三者の考えでいうと、あまり意味のない「一体なにしているんだろう」、とも思ってしまいます。
直接的すぎてはいけないし、直接的じゃなくてもいけない。
かっこいいだけではなくて、けれどかっこ悪くてもいけない。そのあいだの微妙なところを歩いていくのが、「いき」であり、日本人の美徳だと九鬼は述べています。
江戸時代、江戸っ子が蕎麦の汁をちょっとしか浸けないで食べるのは、いきなことだと云われていましたが、それは確かにかっこよくもあり、また変な人だとおかしくもあります。
つまり、江戸時代の人たちのメンタリティは、外からの敵がいない状況のなか、かっこよさとおかしさが、複雑に、そして独特に絡み合い、しかもその絡み合いの概念が、「いき」と人々の間で共有されてしまっていました。それは、異分子(諸外国)から見ると、考えられない光景でした。
九鬼は、いきをさらに明らかにしようと、他のさまざまな言葉と、どんな関係にあるのかを探り続けました。
「この時のいきは何かである」と言わないで、その「何か」というのは、常に他のものとの関係性で、はじめて出てくるいきであり、曖昧なものでも、曖昧なもののまま、追求はできるのだということを、一手に引き受けて論じてくれました。
好む、や好奇心を持つなどの、「好き」は、髪を梳く、紙を漉く、土を鋤く、風がすく、透き通る、ということの「数寄」に由来していますが、この「いき」も、何となく曖昧に揺れ動く「好き」に近いです。
現代のいきは、決して日本人だけのものではなくて、色々なところに伝わって語っていける、いきな、恋心であり、いきな、かっこよさになっていけたらいいなと思いました。
Posted by ブクログ
日本の哲学者、九鬼修造の論考。
本来、感情的、直感的に把握される「いき」という日本文化の心象について構造的な説明を企てた書。
同著の「偶然性の哲学」に挫折したのでこちらを拝読。
「いき」の中心概念に「媚態」が提示されるが、これは恋愛における互いに決して束縛されることのない緊張関係として説明される。
これは恋愛する男女のみならず、あらゆる他者、概念、神、物体に通ずるものだと思った。
すべての他者は自分のものにもならないし、すべての概念を完全に理解することはできない。
神にどんなに接近を試みても永遠に届くことはない。
愛着ある文房具、食器、家具、グッズ、ガジェット、これらに囲まれると、とても幸せな気持ちなるが、同時に彼らと心を通わしたり、共に死ぬことは決して出来ない。
我々はこれらの互いに束縛されない緊張関係の中に存在する。
とてつもなく寂しい。
だが、ある種の諦めと、それでも向き合い愛するという姿勢が「いき」なのかもしれない。
その全体性が日本の美意識だったら良いなあ、などと勝手な解釈と共に思う。
追記
・日本語が美しい(九鬼は詩人でもある)
・全体を理解するには明治期の大衆文化を勉強する必要があるかと思う(特に歌舞伎)
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