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誰よりも青い眼にしてください、と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたら、みんなが私を愛してくれるかもしれないから……人間としての価値や美しさは白人の世界にのみ見出され、そこに属さない黒人は存在意義も認められていない。白人が定めた価値観を痛烈に問いただす、ノーベル賞作家の鮮烈なデビュー作。
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Posted by ブクログ
デビュー作? とんでもない作品だ。 比べるべき作品は、『苦海浄土』しか思い浮かばない。 差別を僕らはある決まった物語の尺度でしか見ていなかった。 その奥底、本当の意味をトニ・モリスンの言葉、表現で初めて知る。しかし、それは序の口という印象だ。悲惨に底はない。
文章の素晴らしさに驚いた。「秘密にしていたけれど、1941年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった」「秘密にしていたけれど」の言葉の意味が持つ親密さ、打ち明け話、信用、このニュアンスが持つ子供の無垢さ。それが差別、暴力の助長につながる。そこをとてもうまく同居させている。
読んだ本は1994年6月30日初版発行の早川書房の本、黒人女性だから書ける本、深く重い印象、ピコーラと言う黒人の女の子の名前が記憶に残る、著者と訳者が1931年の同年生まれ。
1941年のオハイオで、黒人の少女ピコーラは「青い眼にしてください」と熱心に祈っていた。黒い肌で縮れ毛の自分は醜い。美しかったら、不幸な人生は違っていたに違いないのだ。ピコーラは貧しく、学校ではいじめられ、父親の子どもを宿すことになる。 語り部を担当する少女がいるにはいるが、物語はあちこちに飛び...続きを読む、何の話だか分からなくなる。これには著者の狙いがあり、読者が「責任を顧みることをせず、彼女を憐れんでしまうというという気楽な解決のほうへ」流されないよう、読者自身が語りを再構成するようにしむけたかららしい。 この手法のせいかは分からないが、確かに「ピコーラがかわいそう」「父親や白人が悪い」で済ませられない。ピコーラの受難に対して、読者も責任を感じ、罪悪感を覚えずにいられない。貧困も差別もいじめも虐待もない世界だったら、おとぎ話の悲劇として読めると思う。しかし、現実は違っていて、今もピコーラがあちこちにいるのを私は知っている。ニュースで虐待事件が読まれ、ドキュメンタリーでサバイバーが声を上げるのを聞く。ネットでは信じられないような差別発言を目にする。そして、私は何もしていない。 「彼女の上でからだを洗ったあと、とても健康になったような気がしたものだ。わたしたちは彼女の醜さの上にまたがったとき、ひどく美しくなった」「彼女は口下手だったので、わたしたちは雄弁だと思い込んだ」「彼女の貧しさのおかげでわたしたちは気前がよくなった」「彼女はこういうことをわたしたちに許してくれたので、わたしたちの軽蔑を受けるのにふさわしいものとなった」。この言葉に、良心が動揺し、うしろめたさを感じない人が、一切身に覚えがなく純粋な義憤を持てる人がいるだろうか。他人の不幸で自分がそうでないことを確かめたことがなかっただろうか。 また、『青い眼がほしい』はピコーラをいじめ、犯す人間がなぜそうなったかも描き出す。人種差別やそれに伴う貧困に無力感と羞恥心を植え付けられ、それが自分より弱い者への嫌悪感に変わるのだ。他人の不幸で自分の運の良さを確認し安心するときほどではないが、この感情の転換も残念ながら私にはよく分かる。得られなかったものをどうして人に与えることができようか。 人種差別が本書のバックボーンではあるが、「逸脱」させられる側と、「逸脱」を定義する側の相剋の物語として、普遍的な意味を持っていると思った。とにかく重く深刻な物語なのに、非常に美しく繊細に書かれている。心の奥深くに届く作品だった。 【追記】 物語の冒頭の「家があります。緑と白の家です」はアメリカの小学校のリーディングの教科書に登場する白人の兄と妹、ディックとジェインの物語の一節だそう。 file:///C:/Users/tanak/Downloads/annual_intl_17_83-85.pdf
差別を受かる黒人の精神的苦痛の表現がすごい。読めてしまう。 嫉妬心と羨望。ミスターヘンリーの淡緑色の言葉。
自分の容姿を醜いと思い込み美しい青い眼に変われるよう祈る少女ピコーラ。いつか自身の持つ美しさを見つけ人生を変えて行く物語かと期待していたが…更に厳しい苦難が。
差別や暴力の本質を、自分はまだ理解できていなかった……。強者や多数派から弱者に向かうのは、その通りなのですが、そんな簡単な話でもない気がします。差別や暴力の本質は、その弱者の内に巣くい、川の水が上流から下流に流れるように、弱者・マイノリティの中の、さらなる弱者に行き着くところが、本質なのかもしれない...続きを読むと、この小説を読んで思いました。 小説の序盤で語られる少女たちの疑問や願い。 なぜ白人の女の子みたいに、わたしは「かわいい」と言ってもらえないのだろう。 美しい青い眼さえあれば、みんながわたしを認めてくれるはず。だから青い眼をわたしにください。 少女たちの純粋すぎる疑問、そして切実な願いは、改めて差別の残酷さを浮き彫りにします。そして、こうした疑問や願いは実は知らず知らずのうちに、自分に牙を向けていることを、著者のトニ・モリスンは表現します。青い眼をほしがる少女に対しての表現で印象に残ったところがあるので、ここで引用。 奇蹟だけが自分を救ってくれるという強い確信に縛られていたので、彼女は決して自分の美しさを知ろうとはしなかった。(p70より) この文章を読み、ほんとうに哀しくなりました。差別されるものとして自分自身を受け入れざるを得ない現実。内在化され、もはや奇跡が起こることでしか動かしようの無い自身への評価。著者は本来誰もが持つ人の美しさを知りつつも、それを知る由も無い少女をありのままに描くのです。 さらにこの小説は、少女視点で差別を描くなんて生易しいものではありませんでした。さっきの引用はまだ序の口です。著者は少女から、少女の周りの人間、さらに彼女の親と、それぞれに視点を移していきます。 始めはいきなり著者が語っている人が変わるので「読みにくいなあ」と思っていました。しかし、徐々にこの視点の切り替えの意味が分かってきます。著者は視点を自在に切り替え、それぞれの思いを写し取ることにより、社会に内在化された差別を暴いていきます。それは白人社会の差別でもあるのですが、黒人内でもヒエラルキーなどによる差別があることも、同時に暴くのです。 そして物語の後半には少女の両親に視点を切り替え、二人の人生を語ります。この切り替え、そして二人の人生が語られることによって、差別や搾取は現在浮かび上がってきた問題ではなく、歴史に、文化に、慣習に、そして生活に、もっと言うならば”国”と”人間”に根付いたものだということを、明らかにしていくのです。 そして青い眼がほしいと無垢に祈った少女の願いの果ては、あまりにも残酷なものでした。それは差別と目に見える暴力、見えない暴力が膿となって溜まり、弱いものから最も弱いものに向けて決壊したような印象を、自分は感じました。 人種差別を扱った映画や小説は、いくつか鑑賞したり、読んだ経験があります。そのときたまに出てくるのが、性的に搾取される女性たちや少女の姿でした。この本を読むまでは、それに特に深い意味を感じることもなく、ただ痛ましいだとか、かわいそうだとか思うだけでした。しかしこの本を読んでなぜそうした場面があり、そうした歴史があったのか、自分なりに分かった気がします。 白人と黒人という構図は、実は男性と女性とにも置き換えられるのかもしれません。白人社会の中での黒人、男性社会の中での女性、いずれも役割を押しつけられ、そして搾取される存在でした。 つまり自分が今まで見てきた性的な搾取は、社会の中で力が強いものが弱者を虐げる。そんな人間が本質的に持つ暴力性や残虐性を、人種だけでなく性的にも現していたのではないでしょうか。 そしてこの小説が暴いたのは、異なる人種間だけでなく、同じ人種間でも、階層、親と子、男性と女性とで差別があり、暴力があり、搾取があり、それは弱いものの中でも、さらに弱いものに向かうという現実だったのだという気がします。 この小説の裏表紙の内容紹介で「白人が定めた価値観を痛烈に問いただす」とありました。それは間違いではないのですが、個人的にはもっと深いところに、この小説の目的があるように思います。 あらゆる人間が持つ暴力性や残虐性。それは時に社会や文化に埋め込まれ無意識に発現し、弱いものからさらに弱いものへと襲いかかります。あらゆる人種にかかわらず、それを自覚させることが、この小説の目的だったのではないかと、自分は思います。
「1941年の秋、マリゴールドはぜんぜん咲かなかった」という少女の独白でこの物語は始まる。でも、マリゴールドの鮮烈な黄色い花の色を思い描く間もなく、直後に「マリゴールドが育たないのはピコーラが父親の赤ん坊を宿していたからだと考えていた」と文章は続く。少女が播いた種はひとつも花を咲かせず、少女と同年代...続きを読むの女の子は父親の子をおなかに宿した。 何が正しくて、何が悪くて罪なのか。 少女である今はよくわからない。でも少しずつだけど、それはわかりはじめる。そのときに見た色彩をともなって・・ “弱い者が、より弱い者を虐げる”という差別や貧困の根源的課題は、当時の黒人社会でも根強く根を張り、虐げられた“弱者”としての黒人が、自分より弱い立場の同じ黒人を虐待するという内容で、DV、児童虐待、性的暴行が主要なテーマとして出てくる。私達はその痛々しく禍々しい内容に、時には生理的嫌悪も生じるかもしれない。 でも安心してほしい。作者は、黒人の悲惨な状況を並べて読者の同情を得ようというような、安っぽい作家ではない。女性として、黒人として、また新進作家として、自分の感性のアンテナをフル稼働し、少女を語り部とすることで無邪気な視点を交じえ、また、季節や田舎の風景描写を多くするなどで、人間たちの陰惨な行為だけで物語が染まらないように配慮されている。 冒頭に書いた花の色を想起させる描写もそのひとつだと思うし、昆虫の緑色、レモネードの黄色、そして黒や白といった肌の色の描写につながる豊かな色彩感覚が、最後に“The Bluest Eye”(誰よりも青い眼)という表現を、強烈に読者の心に写すようになっている。 もちろん非黒人である日本人の多くにも読んでほしい作品。10代の日本人の女の子も、この作品から多くの大切なことが得られるから。 (2009/8/31)
なぜかフォークナーを思い出す。貧困、人種、人間関係。ああ、20世紀のアメリカ文学よ。読み終わった後、もう一度最初を読み直すと合点がいく、こういう構成だったのかと。さいごに分かるわけですよ、あのひらがなの見出しの意味が。 なあ日本人よ、青い目がほしいと望む黒人を、果たしてわたしたちは笑えるか? 髪の毛...続きを読むの色を変え、目を大きく見せる化粧をし、英語が話せるようになりたいと努力する人々よ。
筆者に初めて触れたのは「ホーム」を読んだ時。朝鮮戦争から戻った兄妹の無残な、救いのない話。あたかも御須メルを文でなぞるような癒しと救いの魂を感じた。 先日フォークナーを久しぶりに読み、難解で捉えようのなかった偉大なノーベル賞作家に再度くらいついてみる気になったから。 読むという行為は「単に頁を捲り...続きを読む、その世界に触れる」だけでは無謀で、入念な下調べとプロット研究、筆者の成育、生活歴、家柄を知って・・成って行くと私には初めての足踏みをしつつかかる。 そこに浮き上がってきた、トニ・モリスン・・フォークナーと同じ、ノーベル賞作家、しかも扱うテーマが人種差別。 何も知識がなかったら、やはり食いつき辛かったと感じさせられた。 叙述が積み重なり、時系列を度外視した一見ばらばらの連作が集まってできている。 ピコーラという少女は12歳、物語を綴るのは筆者の分身と思しきクローディア。そしてピコーラの父チョリーと母ポーリーンの過去が掘り起こされて行く。表題になっている「青い眼が欲しい」と請われるソープヘッド・チャーチの身辺が浮かび上がる。 作品の舞台は1941年、太平洋戦争が始まろうとしている暗雲垂れこめた米世界。フォークナーがノーベル賞を受賞したのは1946年。アメリカ社会を分断した北軍と南軍のしこりが歪みを持ったまま、南北戦争の解決は南部貴族、プアホワイトなどを新たに生み出したまま世界大恐慌へ。追い打ちをかけるような相次ぐ天災の爪痕(スタインベックの作品によく書かれている)を持ったまま、なだれ込んだのがこの時期だ。 南部の貧困層(大半は黒人、それも奴隷層)を抱え込んだまま今に至っている。フォークナーの信奉者であるトニ・モリスンの想いが随所に表れている。フォークナーは南北分断の犠牲者が抱く虐げられた感情をそのまま負とするのではなく、乗り越えて行くために勇気が必要とうたったが・・その後続いた数々の事件を盛りスンはどう捉えたであろう。2019年に世を去るまで彼女の胸に去来した想いの原点がここに詰まっていることを静かに、重く、まるで霊歌の響きのように訴えている作品だ。 グリーンブックを見て感じたのは主役の演奏家の姿、瞳の毅然とした輝石のような煌めき。あのような方も、同時期に苦悩と差別と煩悶の中で戦い生きていたのだという感慨が再度蘇った。4半世紀かけないと世の光が当てられなかったことを噛み締める、そんな作品だった。
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トニモリスン
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