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精神分析の本質は病理的次元でなく倫理的な次元にある。そこでは病いに陥った人間が問題ではなく各人の生き方が問題とされる。精神分析を通して身体症状さえその多くが倫理的な意味をもっていることがわかる。哲学や思想や宗教と親和性のある精神分析の本質を、自らの経験をもとに分かりやすく書き下ろす。難解であるという定説を覆し不幸な受け入れられ方をした日本のラカン理解に楔を打ち込む一冊。
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Posted by ブクログ
すばらしいです。ラカンの入門書としてはこれ以上ないくらいです 向井さんの入門書が難しいと感じたので、こちらから読みました おすすめしてくれた知人に感謝します 特に印象に残ったことの一つは、夢をその見たイメージではなく言葉遊びともとれるようなシニフィアンから分析する態度です ふつう夢は見たままの印象...続きを読むから意味を推察することで語られることが多いと思いますが、イメージよりもむしろ言葉のほうが本質だというのは新しい視点でした まあ個人の実感としてはよほど象徴的な夢でない限り、イメージにもちゃんと意味があるとは思います でもたまになんだこの夢って夢も見るので参考にしようと思います
本当にわかる。ラカンがわかるなんて。 それ以上に人生にインパクトがある。 一歩困難な方へ歩める。力作。
精神分析とは一体何なのか?何が特徴的なのか?他とどう違うのか?ということをくっきり認識できるだけでなく、ラカンのロジックにざっくり触れてもらえることで精神分析がなぜその手法をとるのか、なぜ自分の生き辛さが発生するのか等考えることができる良書だった。話の筋が追いやすく、分かりやすく、しっかりと導いてく...続きを読むれる感があって大変読みやすかった。勿論ラカンの理論が完全に正解で、ここで述べられていることが全て正しくて、ここに書かれていることをベースに人生が全て理解できる、ということではないだろうが、それでも自分の人生や、自分のどうしようもない生きた軌跡や行為に対して、ひとつの見方をもたらし、同時に他人の生に関しても新たな見方をもたらしてくれるという点で大変価値のある本だったと思う。
千葉さんの現代思想入門を読んだことがこの本を読むきっかけであった。この本に書かれている内容だけでも到底理解したとは言い難いが、これまで読んできた本の中に散りばめられた背景の理論を垣間見た気がした。 ここから結びつけていきたいが、あまりわかった気にならないように心がけることだけは誓いとしたい。
今回はジャックラカンの精神分析の入門書を読んでみました。 面白いには面白かったのですが、あとは実際に精神分析を受けてみないと何とも言えないなというのが正直なところでした。残念ながら精神分析はそう簡単には受けられなそうですが。 読んだまとめ ・精神分析が無意識を重要視する、というのは仏教における阿...続きを読む頼耶識とも通じる。 仏教では修行により阿頼耶識にアクセスするが、精神分析は分析者という他者を通じて無意識にアクセスする。 しかも、あくまで言語を通じて、言語を超えた領域である無意識にアクセスしようとするというのが面白い。禅問答も似たような発想? ・いたずらな共感は患者の特異性(決して他者とは共有できない部分)を殺してしまう。なるほど・・・確かに共感だけでは限界がある部分もあるかもしれない。実臨床であえて共感しないのは難しいが。 ・精神分析に興味を持ったので受けてみたいとも思ったが、ラカン派の精神分析は日本では受けられる場所が限られているようだ。 ・健常者なんていない、という発想は、僕自身の考えと合致している。仕事柄精神を病んだ人とも接する機会があるが、彼/彼女らといわゆる健常者との違いは絶対的ではなくグラデーションだと思う。 ・精神病者(≒統合失調症患者)は妄想を補強し、簡単には壊れないようにすることで安定する。なるほど、確かに妄想を否定するのは良くないってよく習うな。 ・人間は他者なしに生きられないが、他者がいるからこそ苦しむ、というのはまさに人間の二面性だ。他者の存在に感謝しつつも、依存はしない。言うは易く行うは難し。 ・エディプスコンプレックスなどの理論は、実際にどの程度確からしいかはわからないが、そういうものがあってもよさそうだとは思う。 ー----------------------------- (以下、自分用のメモ書き) 精神分析とは? ・言葉(自由連想)だけを用いた治療である。 ・無意識(=気づきたくない・抑圧されたもの)を重要視する。 ・無意識を表に出すために他者としての分析家が必要となるが、実際に精神分析を行うのは患者自身である。分析家は「意味を切る」(意味があると思い込んでいたものの無意味性を明らかにする)ことで患者自身の精神分析を補助する役割を担う。 ・いたずらな共感は患者の特異性(決して他者とは共有できない部分)を殺してしまうため、精神分析においては避けるべきとされる。 ・人間を神経症者、精神病者、倒錯者(+自閉症者)の3‐4つに分類する。精神分析において健常者という分類は存在しない。(いわゆる健常者は軽度の神経症者である) 人間の精神の分類 ①想像界 ・イメージの領域。 ・「身体」(≠肉体)も想像界に属する。諸々の器官から得られる感覚的イメージを統合する役割。 ・イメージは言語的なフィルターがかからざるを得ず、想像界は象徴界によりコントロールされている、と言える。 ②象徴界 ・言語(構造)の領域。〈法〉の領域。 ・言語の意味は含まれず、言語を作り出す構造や機能が含まれる。意味的側面は想像界がもたらすイメージ的なものである。 ・人間の言語を構成するもの=シニフィアン。シニフィアンは単体では意味を持たず、意味を持つためには他のシニフィアンと接続することが必要である。 *ソシュールの言うシニフィアンと、ラカンのシニフィアンは異なる。今回はラカンのそれを扱っている。 ・人間が認識している「現実」は言語によって構築されていて、現実そのものとそのまま結びついているわけではない。 ・〈法〉=ルール一般。言語が成立するために文法というルールが必要。 ③現実界 ・ラカン理論は変遷を繰り返しており、特に現実界の概念は変遷が大きい。 ・50年代:言語やイメージをはみだすような領域。 ・60年代:象徴界では扱えないような領域。不可能性それ自体。 鏡像段階 ・鏡を見ることで、自分の体というものを初めて認識し、自我(客体化された自分)が芽生える。 ・ただし、鏡像は自分そのものではなく、他者(=自分ではないもの)である。 →自我は他者があってこそ成立する。 ・鏡像段階において、自分と他者の双数=決闘(duel)の関係が起きる。 ・鏡像(=他者)は自己イメージとして愛の対象となると同時に、自己イメージを奪う他者としての憎悪の対象にもなりうる。 2種類の他者 ・他者には2種類あり、「小文字の他者」と、「大文字の〈他者〉」に分かれる。 「小文字の他者」:自分と同レベルの他者。自我イメージ、友人、兄弟など。想像界に属する。 「大文字の〈他者〉」:絶対的な他者。子供にとっての親など。象徴界に属する。 ・〈他者〉は〈法〉をもたらす存在である。〈法〉により、小文字の他者同士の終わりなき決闘を終わらせることができる。 ・人間は最初から言語の世界に産み落とされ、初めから〈他者〉の影響を受けざるを得ない。 ・母親という〈他者〉が保証するおかげで、鏡像という小文字の他者が機能する。 ・人間は生まれつき、「何を考えているかわからない異質な存在である〈他者〉に生殺与奪の権を握られている」という、根源的に不穏な状況にある。 無意識 ・幼児が言語の世界に入ると、自我が生まれると同時に無意識も生まれる。 無意識は「根源的に不隠」な条件があってこそ生じる。 ・〈他者〉から話しかけられ、受け取った言葉(シニフィアン)の中で、受け入れがたいものは意識下からは消される(=抑圧)が、無意識下に存在し続ける。つまり、無意識とは〈他者〉から受け取ったシニフィアンの集積である。 →だからこそ言葉だけを扱う精神分析でも、無意識を扱うことができる。 ・無意識の形成物を手掛かりにして、抑圧されたシニフィアンとの結びつきを回復させることが、精神分析において重要。 →結びつきの回復により、無意識の〈法〉が更新される。 →このシニフィアンにまつわる悩みが消え、別の抑圧されたシニフィアンが問題となる。 S:主体 a':小文字の他者 a:自我 A:大文字の〈他者〉 S→a'→a:他者のイメージを通して自我が成立する A→a:自我は大文字の〈他者〉にも支えられている a-a'の軸:想像的関係 relation imaginaire。これによりA→Sの無意識(inconscient)のメッセージが主体に届かず、破線になっている。 →精神分析ではAからのメッセージがSに届くことを目指す。 母親 ・最初に出会う〈他者〉、養育者全般のこと。必ずしも生物学的母とは限らない。 ・幼児は〈他者〉なしに生きるための必要性を満たせない。欲求を満たすためにそれを〈他者〉にアピールする。 ・母親は幼児の泣き声を要請として解釈する。 →欲求が要請として言語化されることで、初めて満たされる。 ・〈他者〉なしに生きられない幼児は〈他者〉の不在に対する根源的不安を感じる。 →もともとは欲求を満たすためのものだった要請が、欲求の対象と直接関係のない母の愛を求めるようになってしまう。 ・欲望=欲求と要請のギャップ。完全に満足することはできず、つねに〈他のもの〉を求めてしまう。 ・母親が幼児のそばに常時いるわけではなく、幼児にとって母親の存在は不安定である。 →「母がいなくなるのは他に愛するものがあるからだ」 →「母を引き留めるために、自分は母の欲望の対象にならねばならない」 →子供は、母の〈法〉に従属した主体となる。 →母が子供の主体性を奪ってしまう恐れがある →そこから抜け出すために父親が必要。 父親 ・〈法〉を司り、主体を去勢する機能そのもの。〈父の名〉。 ・父親は母とは違う〈法〉を提示する超越的存在。母親という〈他者〉に〈法〉を与える「〈他者〉の〈他者〉」。 ・〈父の名〉は、あくまで母親の言葉の中にしか存在しない。母という〈他者〉が従っている〈法〉を明らかにするような言葉の中で、浮かび上がる。 ・母親の重要な役目は、何らかの父的存在を認め、世の中には従うべき〈法〉があることを子どもに理解させることである。 →しかし、子どもが〈父の名〉の〈法〉を受け入れられるようになるまでには、様々な困難がある。 →それは、子どもにとって、父親はまず母親の剥奪者として受け止められてしまうから。 =〈法〉をもたらす象徴的父ではなく、母親を剥奪するような想像的父 エディプスコンプレックス(男児の場合。女児は割愛) ・母子関係に父が介入することによって子供が抱く、愛や憎悪などの観念の複合体 ・三段階ある ①エディプス第一の時=前エディプス期 「母を引き留めるために、自分は母の欲望の対象にならねばならない」と思っているとき。 ②エディプス第二の時=実質的なエディプスコンプレックスの開始 母親を剥奪するような想像的父が想定される段階。 母親の現前と不在を統御している原因として、父の存在が見出される。 ③エディプス第三の時=エディプスコンプレックスの解消の時期 父を象徴的父としてとらえられるようになり、その法を受け入れるようになる段階。 父が、母親を奪う存在ではなく、〈法〉を与える存在に変わる。 この段階までうまく進まないと、エディプスコンプレックスは抑圧され、後年になってそれが回帰して神経症に苦しむことになる。 去勢 ・幼児(男児)は、母親を愛するようになる時期(ファルス期)に自分がペニス(ファルス)を持っていることを発見する。女児にはファルスがないことも発見する。 →「女児は誰かにファルスを奪われたのでは?」 →「自分のファルスも去勢されるかもしれない」=去勢不安 →父親が、母親を奪う恋敵というよりも、去勢を行う驚異として認識されるようになる。 →父を憎むのを止め、敵意を引っ込める=エディプスコンプレックスの解消 ファルス ・エディプス第一の時において、子どもがなろうとする「母親の欲望の対象」と呼ばれているものがファルスに他ならない。 ・主体が欲望する=主体に何かが欠如している →母親に何か(欲望の対象)が欠如している=ファルスの欠如 →幼児は母親に完璧な存在で合ってほしいため、自身の手によりファルスの欠如を埋めたいと思う。ファルスになろうとする。 ・母親は子どもの泣き声を要請として解釈し、それに応える。 しかし子どもは「母は自分の欠如を埋めるために要請してくるのだ」と考える。 →子どもにとって、母の要請に応える=母の欲望を満たす=ファルスの欠如を埋める ・鏡像段階において、〈他者〉が鏡像を指して「これがあなたよ」と言うことで自我が誕生する。 母が要請の対象として提示するものは、鏡像と同じ効果を持つ。 →母の要請に応えることにより、自我を確立。 ・エディプス第二の時において、子どもは母にファルスがないことを発見する。 →「母のファルスを奪ったやつ=父親がいる」 →このまま大人になると、想像的父への敵意を抱き続けることになる。 ・エディプス第三の時において、「父が母のファルスを奪ったわけではなく、初めからなかった」ことを受け入れられるようになる。 ・去勢=〈他者〉におけるファルスの欠如を受け入れられるようになること →去勢を行う父親=現実的父 ・子供は母が欲望しているのが、自分ではなく、「ファルスを持つもの」である父親であると実感する。 →ファルスを持つものである父親のようになりたいと思うようになる。 →子供の欲望が母親そのものから解放され、より広い対象に向かう。 現実界 ・現実界=象徴界では扱えないような領域。不可能性それ自体。 ・無意識は言語(象徴的無意識)だけでなく、享楽などの非言語的な領域(現実的無意識)ともかかわっている。 ・現実界そのものへのアプローチはできなくても、現実界に対する態度は言語を介して帰ることができる。 50年代:想像界同士の決闘を仲裁する象徴界 →60年代:想像界は象徴界に制御されており、その対立は見せかけ(サンブラン)である。それと対立するものとして現実界が位置づけられる。 欲動 ・欲動:言語の〈法〉をはみだすような過剰なもの。人間の一番の目標は「欲動の満足」(=享楽)である。 ・欲動はつねに〈かつての状態〉を取り戻そうとする。生命体にとっての〈かつての状態〉=死であり、欲動の目標は死ぬことである。 ・牛追い祭りなど、死に接することは魅力的で崇高でもある。 ・快:緊張の度合いを下げることにより得られる。 ・享楽:緊張の度合いを高めることにより得られる。快と不快が入り混じったような両義的な気持ちよさ。 ・人間の中では生の欲動と死の欲動が対立しながら併存している。死の欲動の享楽を求めつつも、その危険を避けるために象徴界の〈法〉に従う。 ・私たちは生後間もなく、授乳などの原初的な満足体験=「〈もの〉の体験」をする。 →この体験を忘れられず、指しゃぶりなどで体験を反復しようとする。 →しかし、反復行為では〈もの〉の体験を100%は再現できない。 ・〈もの〉の体験は、母親により与えられるため、子どもは母がそばにいてくれることを望む。しかしこの場合子どもは母に従属した存在となり、子どもの存在は飲み込まれてしまう(事実上の、子供の死) ・父の存在により、危険な〈もの〉の享楽を避けることができるようになる。 →失われた享楽を懐かしむ心=ノスタルジー 小さな享楽(対象aの享楽) ・プチ〈死の欲動の満足〉のようなもの:タバコ、高カロリーのラーメン、深酒など →失われた〈もの〉の残骸のようなもの=「対象a」 ・対象aの享楽は、失った〈もの〉の享楽を取り戻すための指針として働く。 ・対象aを手掛かりにした欲望の形式=ファンタスム ・対象aは象徴界と現実界の境目にある。 ・欲望(=欲求と要請のギャップ)の根にあるのは〈もの〉の享楽を取り戻したいという欲望。求めつつも、象徴界の〈法〉にも従うことで、それを割けてしまう。 ・象徴界の〈法〉に従い、欲望の〈法〉をあきらめると、必ず後悔する(罪悪感)。 ・ファンタスムは、対象aを足掛かりにして〈もの〉の再発見の欲望をもつ + 現在の満足(対象aの享楽)を生み出す。 ・生きていくうえで、享楽(=気持ちよさ)は支えになる。 ただし享楽は両義的であり、やりすぎると死に至る。≒依存症 ・ファンタスムは無意識の論理に則って構築されており、その更新には精神分析が必要。 ・生きづらさを抱えた人は、「自分が本当に望むものが何かわからない」という無意識にまつわる問題を持つ。 ・〈他者〉がいなければ生きていけないのにも関わらず、〈他者〉の構造が苦しみを生み出す。 →〈他者〉に依存しない特異的な幸福が必要。 →他人の理解が得られなくても、自分にとっての価値が失われないようなもの。 精神疾患の分類 ・神経症:父がいることに苦しむ 父のせいで享楽が得られない、という状態。 ・精神病者:父が何かわからないことに苦しむ 父が機能しない →〈法〉がない無秩序状態 →自ら〈法〉を作り出そうとする=妄想 →妄想の構築の援助により、病状が安定する ・(性的)倒錯者:父が馬鹿にしか思えないことに苦しむ 父を知っているが、父を受け入れない →性の標準化が得られない
読みやすい文体で書かれており、ラカンの精神分析に親しむ入り口としてとても入りやすかった。それでもわかりづらい箇所はいくらかあったので、他の本も読んでみたいと思う。
とかく難解と言われるラカンの理論を前期ラカン中心に述べているが、著者が精神分析を実際に受けていることもあり、思想家としてのラカンよりも臨床家としてのラカンを意識して描かれている。 ラカン派のポイントは「世界の認識の仕方」と「人間の理解の仕方」にあると感じた。前者については想像界、象徴界、現実界の理...続きを読む解に収斂しており、現代思想にある程度親しみがあれば比較的理解しやすいと感じた。 問題は後者である。一朝一夕で理解できるものでないのは当然だが、非常に難解である。一つには、本書で解説されるエディプス・コンプレックスが60年代までのもので、なにぶん古いこともあるだろう。とはいえこれ以上易しい解説もないだろう。永井均が『ウィトゲンシュタイン入門』で述べていたように、難しいもののレベルを落として説明することは無理なのである。
「健康な精神などというものは無い」ことを前提に 本来的な「主体」を見つけ、知り、受容し ある種の居直りを身につけること それを助け、人を生きやすくするのが精神分析である しかし実際にやるとなるとなかなか簡単なことではない 「健康な精神などというものは無い」という前提を 疑うつもりはないけれど それが...続きを読む一般社会の常識に逆行しているのは確かなことだし また自分自身に居直る態度も 周囲から「生意気」のレッテルを貼られる原因になりがちで だから精神分析による一種の悟りを得たとしても 結局、社会との軋轢に直面し 孤立してしまうことはあるわけだ それでまあ、かえって何かへの依存を深めてしまうことも たぶんよくある話なんじゃないかと思う しかしながら、投薬に頼る治療法が 個人的に抱えた問題を棚上げにしてしまいがちなのも やはり事実なんだろうし それが例えば向精神薬依存にまで至る可能性もまた 否定できないだろう 度し難い 依存も捉え方によっちゃロマンチックだけどね この本の表紙イラストみたいに 美しいメンヘラの二律背反みたいな幻想はあっていい と思うんですが だがもしも幻想と現実が齟齬をおこしてしまったならば それは悲劇である そうならないためにもまずこれはむしろ 幼児発達メカニズムを軸とした、一般論的な世界観の あくまで一例として 精神的距離を置きつつ学ぶのがいいんじゃないだろうか とはいえ正直に言うと 実感に比較して納得のいかない部分はかなりある 無意識に沈むのはシニフィアンではなく 耐え難い恐怖や 忘れ難い享楽の瞬間におけるイメージではないか、など 思ってしまうわけだ しかしそういう持論にこだわりすぎるのもやはり依存なのだろう 依存というのはつまるところ、母に抱かれた胎児の心だけを つまり無謬の全能感だけを健康な精神とみなす幻想であろうから それに気づいたとき 人ははじめて己の足でこの現実を歩みはじめるのかもしれない ところが依存を脱するべく去勢を繰り返すなかで 人間は鏡の中の自分を認識できなくなり かえって無謬の錯覚を強めていくのではないかとも 思えてならないのは やはり度し難いことである だから僕はもう なるようになれ、としか言えません
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