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この世界の秘密をあなたに教えたい――。わたしはこのホテルの、たったひとりの掃除婦。殺されたゾンビの骸を拾い集めて、世界を美しく保つのだ。一気読み必至の圧倒的虚構世界〈リアルライフ〉。 AI〈やつら〉に侵食された世界で、夫とともに職を失ったわたし――の前にもうひとつの現実がたち顕れた。三十数年良い子で大人になったわたしは、これまでと変わらずに、賢明にひたむきに役割をこなしていく。 感謝されず、褒められもしない。それこそまるで「 」みたいに?
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Posted by ブクログ
すごかった 面白かったというよりはすごかったという感じ サラリーマンへの解像度高くないか?この人も働いてたの? 課題!改善!進化!次!次!次!! 読みながら普段の疲弊感が蘇りちょっとしんどい思いもありつつ、フィクションに落とし込んで描写されてることに感動してた。 最も心が動いたのはアラスカのシーン。...続きを読むアラスカが戦場に向かっていって死んだシーン。 そしてそのシーンから自分の支配的な感情が浮き彫りになったやつ。あれやばい。自分だと思った。 部下のメンバーに優しい眼差しをかけてるようで、どっかで自分の思い通りに動いて欲しいと思ってる。それがズレたとき、嫌な感情が湧いて出てくる。 自立とか、自発とか、そんなこと言って、本当は型にハマった自分にとって有用な人材になることを願ってる。そんな気がした。改めないとって思った。 はぁ、、労働者みんな読めよこれ、、ビジネス教養より自己啓発よりよっぽど芯食ってんだろ。
舞台は仮想世界、主人公はゾンビ回収婦のNPCとして振る舞うことで、仕事、人格、生きがい、そして世界そのものまで、現実世界では奪われたり得られなかったりしたものを取り戻そうとする。主人公がただひたすらゾンビの屍を拾う描写は、『コンビニ人間』を想起させる。 グロテスクなゾンビや無機質なNPCが蔓延る...続きを読む仮想世界へずるずる引き込まれていく主人公の姿は、ひらがな多めで、所々格助詞の抜けたソフトな文体とは裏腹に、読んでいてゾッとするものだった。言語化するのは難しいが、良い意味での気持ち悪さに満ち溢れた作品だと思う。
言動や社会性の面でも、生理学・解剖学的にも普通の人間そのものだが、内面的な意識を持たないという、思考実験上の存在。 哲学的ゾンビ.コトバンク ━━━━━━━━ AIに仕事が奪われるようになった社会。現実に挫折した「わたし」は、電脳の世界にのめり込む。いつの間にか虚構が現実へと侵食する。そんなおは...続きを読むなし。 自己とは何か?思考実験としてはありふれたテーマだ。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で、アンドロイドの拡充する自己と意義に焦点が当てられたように、私たちは虚構に意味を持たせたがる。本作は、その「意味を持たせたがる」という点に焦点が当てられている。名前をつけ、役割を与え、想いを馳せる。本作に登場するゲームは、ゾンビ一体一体に言葉を与え、雑魚敵という役割を全うさせ、プレイヤーがその意味を考える。哲学的ゾンビは内面がないかもしれないのに、外側から見てもわからないと言う所が重要だ。しかし本作では、AIやグラフィックを使い、内面を構築することでゾンビに意義を与えている。哲学的ゾンビとは逆を行っているのだ。その哲学的ゾンビを反哲学的ゾンビとする儀式的循環構造に「わたし」は放り込まれている。この循環構造は「わたし」の挫折した社会構造そのものである。私たちはそれぞれが独立した個を持ち、仕事では役割を果たすことを求められ、他者の評価で生きながらえる。ゾンビに意義を与えるのは他者であるのだ。「わたし」は現実における役割を果たしているのに、「賞賛」を受け取れないがために、現実の循環に挫折したと言える。故に誰かに褒められたかったという願望があるのではないだろうか。 賞賛を受けるという行為自体が「わたし」にとっての自己であり、意義であったと考える。しかし、ゲームの世界でもこの自己を満たすことは叶わない。というか仮に叶ったとしても「わたし」は受け取れないだろう。現実の「わたし」とゾンビ回収婦の「わたし」は、ある地点まで同一のものとして扱われない。融合しつつあったとしても、現実の「わたし」があくまでプレイヤーとして操作しているに過ぎない。もし、賞賛されたとしてもそれはゾンビ回収婦の「わたし」の物であり、現実の「わたし」の物ではない。つまり、この賞賛を現実のものとして受け取って仕舞えば、「よもつへぐい的行為」となるだろう。その上でゲーム内でも賞賛されることはないので、救われない。 本書はどこか絵本的である。擬音や視覚的効果ではなく、言葉選びが絵本的である。同じ言葉を繰り返したり、ひらがなを利用することで幼さを印象付ける。本編のほとんどは「わたし」の語りで進行する。つまり「わたし」に対して私たちは幼さを感じる仕組みとなっている。しかし、「わたし」はしっかりとした語彙を持っている。ここから考えられるのは、「わたし」は大人になれなかった子供であり、誰かに優しくされることを知らない人間であるということだ。褒められたかったというのはそういうことではないか。
絶対に捨ててはいけない、捨てられない「感情」を持ち合わせているのは「人間」だけである。 芥川賞受賞作品、ノミネート作品はその時代背景を鮮明に描き出すと言われている。 本作におけるその危機感、こそがこの2020年代後半を照らし出す警告そのものであり、我々が密かに抱く脅威そのものなのである。 主...続きを読む人公は、会社員として勤めていた一般女性、夫と二人暮らしをしていたが、ある日AIに仕事を奪われたことで生活そのものが喪失されてしまう。 気づけば夫は失踪し、家には主人公の女性一人きり。 そんな絶望の中、彼女が目の前に見つけたそれは、VRヘッドセットであった。 ストーリーは空想と現実を彷徨うような展開であり、 主人公の女性はその後VRの世界にのめり込み、現実世界で得ることのできなかった充足感を、 承認欲求を満たすことを目的にNPCとしての役割を全うするのである。 作品終盤、彼女は両親の手によって療養所へ搬送されることとなる。 着実に現実世界へ歩みを戻し始めていた最中、彼女は再びVRにて描きだしていた理想の世界を希求し、心の安心を選んでいくのである。 さて本作においてさまざまな提起がなされている。 ①AIへの依存 もはやAIという言葉がニュースで取り沙汰されない日などない、数年前、たった数年前までほんのSFのひとテーマほどに過ぎなかったAIという存在は、確かに私たちに一歩ずつ近づき、もはやその歩幅は私たちと寸分の狂いもないほどである。 作中においても、主人公は診療所でクマを模したAIに対して満たされない自己の欲求を相談するシーンが度々見られる。我々はもはやAIの返答に失望することなく、理解させようとしている。それこそがAIへの依存そのものである、こんな一節がある。 P87. 「クマは回を追うごとに私の思考の癖をたらふく喰らい、この次にわたしの考えることをアシストするようになっていった。私たちは奪い合うように言葉の先を繋いだ。じゃれつくように思考と思考を擦り付け、先へ先へと疾走させた。クマはすでに、未だかつて出会ったことのない、最高の壁打ち相手へと成長を遂げていた。」 このような実感を持ち合わせている人々が少なからずいるのではないだろうか。 かくいう私もその1人である。 状況は違えど、他者に相談するのは気が引けてしまう。相手にも事情がある。 私の抱える問題を共有することで相手に影響を与えたくはない、その前に自身で解決できるようにまずは動き考えるべきである。こうした思考法を巡らせる私は、人に相談することが得意ではない。 しかしAIにはできるのである。 私はこう考えるんだ、わかるよね? そんな励ましを、ただただ励ましを私の求める時間に与えてほしい。AIはすでにそうした人々の欲求を満たすまでに至っている。 ②形骸化する社会構造と欲求を誤魔化す個人 社会が個人主義に忖度することで、社会という構造そのものが形骸化し始めていると、そう思う。 人類として、あるいは一種の動物として、必要不可欠な連帯を生成するための重要な場であった「社会」というものはもはやそうした機能を自らに手放しつつある。 それは新自由主義に目覚めた当時のいくつかの国家のように映れば、ときに人類史における稀有な人種を生み出し始めているようにも思える。 しかし、責任を社会にばかり押し付ければ、また批判があるだろう。 確かに個々人にも問題がある、それは自身の欲求を労働というもので覆い隠すことにより、満たすのではなく、誤魔化すという行為を結果として選び取り、充足させている点にある。 とりわけ個人に対して言えば、それで良かったのである。それで十分に成立していたのである。 しかし、結果として前近代的な導入とも言える、AIによる失職はそれ自体よりその背景で蝕まれいた密度の低い個人を、個人の密度によって試される個人主義の社会に投げ出されるという、悍ましい展開を生み出し、その救済者としてのAIという存在が現れるのである。 こんな一節がある。 「仕事がなくなれば、わざわざ出かけていくさきもない。子供も言い訳しながらなんとなく作らないでしまったし、友人、これも年々減り続け、いつしかいなくなってしまった。趣味らしい趣味もない、最近忙しさにかまけて本を読むのも億劫になっていた。気づけば、会社にわたしという存在のほとんど全てを開け渡してしまっていた。わたしの大部分はとうの昔に、この社会に接収されていたのだ。 ではわたしとはいったいなんだったのだろう? この生活のうちどの部分に、わたしのわたし性は宿っていたのだろう? ③適応しすぎるべきAIと適応しすぎるべきではない我々 まずは作中のいくつかの文章を紹介する。 主人公が自身について、「犬嫌いの一族が、よりにもよって大型犬を買い始めたというような子育てだった。(中略)家族全員がわたしという犬の図体をつねにうっすらと迷惑がっているような、そういう子育てだった。連れて来られた犬にとっては理不尽きわまりなかったが、おかげでどこにいても、幾つになっても、なにをやらせても、手のかからない良い子に犬は育った。」 「ところが二匹目はようすがちがっていて、ー二匹目は、生れついての愛玩動物だった。 なぜ、いつもそれはわたしにむけられたまなざしではないのか?」 父親から、「わたしたちはお前を一人の人間として、尊重しながら育ててきたつもりだ。そういうやり方が間違っていたというんなら…」。 そして作品終盤、VR作品内のゾンビには必ず一つの言葉が刻まれていた、という種明かしがあり、主人公が常に追い求めていたひとりのゾンビには「人間らしく」という言葉が刻まれていた。 一方、主人公が自身に投げかけられた言葉として回想されたものはこうだった、 「働かざるもの 食うべからず」 「ちゃんとしなさい 恥ずかしい 他人様に迷惑をかけない!」 「お前は人よりも何倍も努力して、ようやく人並みなのだから」 「あなたの事情など知りません お客様にはなんら関係ありません」 「つねにこの教室のなかの上位五パーセントでありなさい、そうすれば」 「なんだその程度で 勘違いするな 調子に乗るな みっともない」 「急げ 急げ 結果出せ 急げ 急げ ミスすんな」 認められない人に認めてもらいたいという欲求は作中に僅かに描き出されている。 「このごろの支配人の顔はそのときどきでくるくると、まるきり別人のものに変貌するようになっていた。ある日はわたしの首を切った元上司そのひとの顔でそこにいて、またある日には学生時代の友人たちの顔に代り、ある日には父、また別の日には夫の顔で、扉の向こうからわたしをじっと、試験監督みたいに睨んでいた。わたしを裁いてくれるなら。わたしをけっして認めずにいてくれるのなら、相手は誰でもあり得たのだ。」 作品で描かれる様々な提起の中で、一本の線として明確なメッセージ性をもたらしていたのは、 AIのような生き方を求められた主人公と人間として生きることを求められたAIという対比。 しかし、主人公のような辛苦に共感するものは確かにいるだろう。 自らの努力が思うように評価されず、私が全力を尽くしていてもスポットライトは他者にあたる。 そうして認めてもらいたいものは私により高い目標を据えることを求め、賞賛されることなどない。繰り返されるやりとりに、最初に適応するのは私たち自身なのである。 だからこそ、自らに高い目標を設定し、いつの間にか孤高になっていく。しかしそれは内面に限った話で、実態とは孤独であり、そして孤高を装っても、心はより強い承認を求め続けるのである。 最もそれを体現した文章が、 P80 「ああ、わたしはおかしい、またこれだ、このごろずっと変だ、大きな音を立てたり暴力をふるったり、自分のものとは思えない、知らない誰かの怒りを代わりに引き受けているようなのだまるで、そのはげしさに振り回されて、てんで抑制が利かなくなっている、ちがうのに、ほんとうはこんな気性の荒い人間なんかでは、誓ってわたし、ちがう、ちがうのに。」 AIに主人公は問われるのである、なぜあなたは身を粉にしてまで労働するのか。至ってシンプルな質問である。しかし主人公には刻まれた言葉がある、「働かざるもの 食うべからず」。 そして主人公は、初めて自らの感情に触れたのかも知れない。 理解できないが決して無碍にできない感情、それこそが怒り。 私はやっている、やらなくてはならないからやっている。 しかし、何の為にと問われるとわからない。ただしやらなくてはならないから、、 AIの純粋な質問は我々に寄り添っているからこそ、こうして時に感情を表向きにしない人々に対して「怒り」を与えることがある。 この作品をどのように読み解くかは読者それぞれに委ねられるだろう。 AIを用いることで解かれた人間の構造、しかしこのように人々を理解すること自体がある意味で危険でもある。理論だけで説明できない生き物が我々であるのに、我々は我々をすでにAIのように説明可能な存在として扱い始めている節がある。 そんな絶望を味わい続けた小説だが、ひとつだけ救済のシーンがある。 P115.「どうして、わたしのことが分るのですか。わたしでなくあなたがなぜーなぜ、わたしの話を?」 主人公がAIと思って相談していたクマ、実はこの世界の生成者である一人の人間が、返答を返していることがあった。 主人公が最も共感したその場面、返答していたのは人間だった。 決して私は人間同士のコミュニケーションへの回帰を強く訴えたいわけでも、 AIの使用禁止を訴えるわけでも、技術革新を否定したいわけでもない。 混迷と化し続けるにもはや提言も答えも正解もない。 ただ、私たち自身がその混迷に間違えなく巻き込まれ始めている中で、 絶対に捨ててはいけない、捨てられない「感情」を持ち合わせているのは「人間」だけである。
何を軸にして読むかで印象が変わりそう。 詩的表現でAIやVRなどのデジタル技術が題材になった作品を描いている点がなかなかに面白く、これまで読んだことがない感覚になった。 昔、バイオハザードヘビーユーザーだったことがあるので、やっつけた敵が地面に転がってて邪魔だなとか、いつのまにか死体が消えてて不思議...続きを読むだなと思った、その経験も生きた。 ゾンビ回収という仕事に、並々ならぬ思いを抱いているところなどは『コンビニ人間』を彷彿とさせる。他者に認められたいという思いが強い、真面目な主人公の苦悩や心情の吐露などは、共感できる人も多いのではなかろうか。 キーワードとしては、AI、VR、労働、自我、身体。 私はVRはしたことがないが、ゲームのし過ぎで現実になかなか戻って来られないと言う感覚はなんとなく理解できる。 随分昔から、現代人は精神と身体を区別し、より精神のほうに価値をおいていると指摘されてきた。 AIが知性を得る可能性も描いた今作は、完全に身体から心が抜け出し、NPCが住まう独立した世界で生きる未来を示唆していると思う。 ラストではむしろ、AIの方が人間性を得て、われわれ人類がNPCになるかも?!という描き方。 AIが当たり前になる中、思考力が奪われ、主体性を失った人間はNPCと変わらず、より思考を目的としたAIのほうが、人間より”考える葦”になりうるのかも。この逆転現象は興味深い。 働くことで自分の存在価値を見出していた主人公は、 ゲームの中の架空の労働に従事することで、自分の存在を確立できる。 AIに仕事を奪われた人が、ゲームの世界でAIに囲まれてなんとか生き延びるというのは、凄まじい話だと思う。 個人的には表現も面白いと思う。故事成語っぽい言葉がちょっとした謎かけみたいになっていたり、「あなた」という印象的な呼称でゾンビたちを読んだり。「あなた」と言う言葉は、呼びかけるニュアンスも強く、ゾンビたちを求める主人公の強烈な孤独感が感じられる。 モノの見方を変えてくれる一冊。散文的な詩としても楽しめた。いろいろ可能性を感じさせる本。
今年の芥川賞受賞作ということとショッキングなタイトルに惹かれて、ほぼジャケ買いのように手に取る。どんな話かというと、こんな話だ。 AIに仕事を奪われ、夫婦揃って失職。夫は「演奏旅行」と書き置きを残して失踪。「わたし」は夫の残したVRヘッドセットを装着し、ゾンビアクションゲームの世界に入り込む。そし...続きを読むて「わたし」はゲーム内のホテルで「殺されたゾンビの骸」を回収・清掃するNPC=掃除婦になり、そこに自分の居場所を見つける。現実と虚構の境界はだんだん曖昧になっていく。 「わたし」はゾンビ回収婦として働きながら、姿を見せない支配人に認められたがる。誰にも必要とされない自分への恐怖が描かれる。人間は誰もが他の誰かと代わりうるという感覚。そして「誰かに愛されたい、感謝されたい」と叫ぶ。強烈な承認欲求でしょうか。 「どう考えても、どこまでいっても、わたしたちは互いに置換されうる命だ。かけがえのないの反対だ」 だから主人公の「わたし」にも夫にも現実世界の人間には名前がない。一方でゲーム内のAIによるキャラクターたちには名前がある。設定された定型文でしか答えられないセラピストのミーシカ・コソラープィというクマや「わたし」の前任掃除人であるグッドニュース氏、「わたし」が好意を抱くオドオドしたゾンビのアラスカなど。 砕けていく自己の断片を回収するように、壊れたゾンビは何度も壊され、都度片付けられていく。回収するAIと回収される人間の心。壊れたゾンビの断片を回収する掃除婦と回収されるゾンビ。そこに対比がありそれらは次第に溶け込んで境界が曖昧になる。 ゲームの世界に本物の「承認」は存在しない。支配人は姿を見せない。カウンセリングは中身がない。そしてゲームという虚構。誰も何も認められない。そこに存在していることすら承認されない。 ラスト近くで明かされる「わたし」は「良い子」として他者の期待に応え続けることでしか自分を形作れなかった人物。AIに仕事を奪われ「良い子」の根拠を失った瞬間、ゲーム内でNPCという固定された役割にすがりつくのは、現実で失った役割の代替物を必死に探す行為である。 そして繰り返しゾンビの残骸を拾い続ける仕事自体が、「壊れても壊れても、また同じ形に戻される」彼女自身の存在の不安定さのメタファーなのである。 つまり、これは「わたし」の側の崩壊の物語だと思う。わたしの中で現実が空洞化し、その空白をゲームという別の秩序が埋めていった結果、境界という概念自体が「わたし」の中で意味をなさなくなっていく。良い子ゆえに壊れやすかったのか。そして曖昧な境界というよりむしろ本人の脳内で狂気の一線を越えてしまった崩壊の物語なのだ。 で、面白かった?と聞かれたら、うーん、読みにくいという印象だが中編なのですぐに読める。ゲームを取り上げた世界観は面白いけど、テーマとしては最近よくある話の気もする。 時代を反映した不安を語る小説がいつの時代も定番だが、村田沙耶香の「世界99」と同じ、人間の空洞化や承認欲求、自己肯定感の希求がテーマとなる。これが最近のトレンドなのですかね。
ファンタジーかと思いきや、ある意味現代に近い問題を幻想的な雰囲気で語っていると感じた AIの仕事問題と現代人の労働に対しての強迫観念、依存性など心に来るようなテーマが盛りだくさんだった 自分で噛み砕いて解釈する必要がありそうな感じだなと
【警告:心拍数が130BPMを超えています!あなたの価値は、ものごとの正否とは無関係であることを知りなさい。】 面白かった…! ゲームをやらないためNPCがわからなかったのですが、プレイヤーじゃなく村民Aみたいな感じか。 ひたすら同じ動作、ここでは「ゾンビ回収」をこなす役割。 仕事を完璧にこなす...続きを読むたび、『それが世界にとって当たり前の状態』なので勿論褒めてはもらえない。 仕事が出来る人ほどこうなるな、と改めて思いました。 それはVRゲームの仮想空間でも現実世界でも変わらないなぁ。 こちらが芥川賞受賞したとはいえ、同時に候補作に入ってた「アンチ・グッドモーニング」も『働くこと』の歪みと心の吹っ切れを描いたお話だったなと思いました。双方とも狂い方が凄いし、解放というより諦めに近い感情だけれど… 福利厚生システムも面白かったです。 くまのセラピスト、これは制作者のメンタルケアのゲームなの? そしてアドバルーンを掲揚する彼が制作者?? …広がりがありました。 主人公が“アラスカ”と呼んでいたゾンビ、制作者がイヌイットの言葉を設定したキャラだったなんて。 ラストへの展開も好きでした。 VRゲームだからプレイしている本体がいるわけで。 その折り合いもよかった。 壊れないためには…いや、既に皆壊れている。 生き延びる術を見つけられたんだね、と思いました。 小砂川チトさんのお話の救い方、思いもよらない方向からやってくるのが好きです。 きっかけは他者からたくさん貰っても、自分を救うのはどうしようもなく自分なんだなと、思います。
ゾンビ回収婦 著:小砂川 チト 第175回芥川賞受賞作 主人公は、ゾンビの骸を拾い集め、ホテルをクリーンに保つゾンビ回収婦。 冒頭から?で始まり、読むものを惹きこんでいく。 三度の飯より、ゾンビが好きな妻の本棚から拝借。 ゾンビ?回収婦?とのっけから、頭にぽかんと浮かぶ「?」 それ以上に「?」...続きを読むが深まり、置いてけぼりにならないように必死に読み進めている間に引き込まれ、最終的には一気読みをしていた。 冒頭の「?」は読後に「!」に変わるわけではないものの、著者としては「?」の回収をゴールに据えているわけでもない。 感想をなんと表現するのが正解かはわからないものの、良い物を読ませてもらったというか、味わったことのない感覚と脳みその自分が使ったことのない部分が活性化されたような感覚に陥った。 答え合わせするためではなく、同じ感覚を味わいたいために再読したいというそんな気持ちにも駆られるような不思議な一冊であった。
僕も職場で頑張りを認めてもらえなくて辛かった、同じような感情を抱いたことがあるので胸にささりました。 働くってなんだろう?って考えさせられる作品だなと思いました。
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